きみの知らない話からはじめよう。

 

 はじめてこんなふうにタイプライターで文章を書いたのは七歳の頃だ。書いたのは手紙だった。つまりいまわたしがきみに宛てて書いているのと同じだ。宛先は叔父だった。彼はわたしを溺愛してくれた。養子に入らないかとさえ云ってくれた。叔父には息子がいなかったんだ。わたしも彼を慕っていた。叔父は都会で金貸しをしていて決して裕福と云うわけじゃなかったが余裕のある洒落た生活をしていた。田舎暮らしだったわたしはその暮らしに憧れたものさ。よく憶えている。叔父の部屋には見たことのないものがたくさんあった。#銀塩写真機。回転覗き絵。それから、蓄音機。彼の家を訪れるたび叔父はまるで世界の舞台裏を明かすかのようにこっそりとわたしにそれらを触らせてくれた。そうしてカメラを覗きレコードを聴くたびわたしはまったく新しいものがこの世界に立ち現れつつあるのだと確信してその驚異に胸打たれた。いまとなっては当たり前となってしまった光の固定や錯覚による動画そして音声の記録がただそれだけによって娯楽たり得た時代のことだ。

 

 思い出のなかの叔父の部屋はいつも夕暮れできらきらと眩しいほどに瞬いている。それは本当に陽の光を反射していたのかそれとも思い出のなかでつくられた、暮れゆく時代への憧憬なのか。あるいは記憶と云うものはこんなふうに輝きながらまばたきするものなのかもしれない。つくづくわたしたちは不連続な存在なんだと思うよ。すべての記憶はばらばらに途切れている。どんな認識も滑らかではあり得ない。それだのにわたしたちは一瞬の暗闇をすぐさま忘れて取り繕ってひとつづきの物語にしてしまう。

 

 難しいことを云う。ここまでの話だけできみはそう思うに違いない。束の間主題を忘れかけていたことは認めるよ。けれどもわたしにとってこうした考えをもたらしたものこそ叔父から贈られたグラモフォンなんだ。叔父がはじめてそれを見せてくれたとき彼はちょっとしたいたずらを仕掛けた。わたしをひとり部屋に待たせて何も触ってはいけないよと念を押してから叔父は出ていった。わたしはもちろん云いつけなんて守らなかった。四方を取り囲むきらきらした装置に惹かれてわたしの気持ちは破裂しそうなほど昂ぶっていた。階下からは叔父の声が聞こえていた。大丈夫とわたしは自分に云い聞かせて硝子戸棚の回転儀に手を伸ばした。そのときだ。確かにわたしのすぐ後ろからいたずらっ子めと叔父の声が聞こえた。唸るように。わたしは腰を抜かした。尻餅を付いたのが聞こえたんだろう。叔父が上がってきて大笑いしながらカーテンを引き窓辺に隠していた機械を紹介した。やっぱり手を出したなと叔父は満足そうに云った。いたずらっ子は叔父のほうだったと云うわけだ。

 

 それから叔父は機械の原理を説明してくれた。当時のわたしには難しくてよくわからなかったけれどそれでも説明してくれるのが叔父の良いところだった。つまりその機械は言葉を憶えてくれるのかとわたしが訊ねると彼は首を横に振った。グラモフォンは言葉を憶えるわけじゃないと彼は云った。言葉を音に分解するんだ。音と云うのはつまり振動だ。波の束だ。この機械はあらゆる言葉を意味のない波へと解体してしまう――聖書の言葉だろうとね(叔父はしばしば神を揶揄した。そのたびにわたしの背筋は背徳的な喜びに震えた)。そうすることで記録が可能になる。

 

 でも確かに叔父さんがそこにいるような気がしたよ。わたしは云った。

 

 叔父は頷いた。グラモフォンは記録された振動を再生しているに過ぎない。それを人間の声だと思い込んで言葉を聴き取り意味を見出すのは人間のほうなんだ。記録はばらばらに散らばっていてもそれを記憶として寄せ集めるのは人間なんだよ。

 

 まだわたしの話を聴いてくれているかい?

 

 わたしはもう叔父が正確になんと云ったか思い出すことができない。あの日のことは記録に取っていないからだ。録音はまわっておらず日記もつけていなかった。叔父のことを思い出そうにも記憶をつくり出す記録がない。憶えているのはわたしだけなんだ。心許ないこの淋しさがきみにわかるだろうか?

 

 グラモフォンが叔父から贈られてきたのは翌年のことだ。ある朝首都から大きな荷物が届いて梱包をほどいてみるとあのアサガオのような頭が覗いた。愛する甥へと宛てられていた。添えられた手紙には商売が立ちゆかなくなったので急ぎ財産を手放すことにしたとあった。空のレコードがついていた。いろいろな声を記録してくれと叔父は書いていた。わたしは急いで返事を書いた。こんなふうにタイプライターで。けれども手紙は届かなかった。いやもしかすると届いたのかもしれない。けれども手紙の行方も叔父の行方もじきにわからなくなった。

 戦争がはじまったからだ。

 

第一章 グラモフォン

 

たったいま発明されたばかりの、まだ量産態勢にはほど遠いフォノグラフが、他のあらゆるメディアを圧倒して優位にたつことになった。なぜなら、テーヌやスペンサーが脳をめぐる比喩で用いていたグーテンベルク式印刷所やエールリッヒ式自動ピアノとちがって、慎みというものを一切欠いたフォノグラフだけが、万能機械の同時に果たすべきふたつの行為、すなわち書くことと読むこと、記憶することとそれをまさぐること、記録と再生を組み合わせることができたからである。

 

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 放課後はたいていキトラをさがすことからはじまる。

 以前は保健室がお決まりのねぐらだった。いちばん奥の窓辺、陽のあたるベッドでくるまっているところを揺り起こせば済んだものだ。それが居場所を転々とするようになったのは二学期になって養護教諭が変わってしまったからだろう。もっとも、叱られたのであればキトラは変わらずベッドを占拠していたに違いない。そうではないと云うことはその逆――、新しい教諭によっぽど親身に寄り添ってもらえたか。事実キトラはしばらくばつの悪そうな顔をしていた。なかなか見られるものではない。

 

 季節は短い秋を終え、冬へと近づくはざまにある。空は高く、風は冷たい。

 図書室や理科室、視聴覚室なんかもひととおり覗いて見あたらないのでピロティーに降りる。ここにもいない。屋上だろうか。そう考えたところで学校ではめったに嗅ぐことのない匂いを嗅いだ。燃える匂いだ。焦げくさい。

 

 ――誰かが校内で焚き火をしている。

 

 心当たりはひとりしかいなかった。校舎の裏にまわると案の定、燻る枯葉の山を火かき棒で突っつきまわす蓬髪の少女を見つけた。キトラだ。首許にはマフラーをぐるぐる巻きにして、額からは汗がにじんでいる。口笛を鳴らしてご機嫌だ。

 そのわきでは用務員の太った老人が枯葉を掃いていて、ときおりキトラに様子を訊ねる。

 

 ――どう、そろそろかな?

 ――まだですよウオさん。ちょっと焦げるくらいが美味しいんです。

 

 焼きいもでもつくっているらしい。無法だ。

 近づいてくるこちらの足音に気づいたのか、キトラは顔を上げた。

 

「――やっと来たね。どこにいたのさ」

「こっちの台詞だ」

「安心してよ。焼きいもはトーマのぶんもあるから」

「それで焚き火は不問にしてくれって?」

 

 キトラは口角を上げて、きり、と笑う。それからえいやっと棒を枯葉に突っ込みまるで魚でも捕まえるようにしてアルミホイルに巻かれたブツを取りあげた。陽を浴びて輝く銀の実り。

 

「わたしがお願いしたんだよ」

 

 用務員氏が軍手でブツを受け取って、云う。

 

「だから大目に見てやって、な」

 

 老人は焼きいもを器用に剥いてこちらに差し出す。焦げのついた表面の内には黄金色の身が詰まっていた。

 受け取り、囓る。熱く、甘く、うまい。頭が醒めた気がする。

 

「別にぼくはどうもするつもりはありませんよ。ただ――、バレたら危ないかなって」

「じゃあバレなきゃ危なくないね」

 とキトラ。いもを頬張りながらはふはふと吐く息が白い。

「ま、大丈夫、大丈夫」

〝ウオさん〟は豪快に笑ってブツを太鼓腹のポケットにしまった。カイロ代わりだよ。まずはこっちを片づけないと――、そう云って彼は箒を片手に校舎の陰へ消える。

 

「ウオさんって本名?」

「あだ名だと思う。正確に発音するなら、うぉーさん、だ」

 火の面倒を見ているキトラの隣にしゃがんだ。

「用務員といつの間に仲良くなったんだ?」

「わりと前。授業時間中に校舎を歩いているとよくすれ違うからさ。自然と顔見知りになって、いまじゃ全員と話せる仲」

 

「――授業、出てる?」

「出席日数の計算はしてる。案外いけるもんだよ」

 キトラはまた笑った。いつもの不敵な笑みだった。

 ぼくはため息をついた。

 

「――頼みごとを持ってきたんだ」

「誰の?」

 言下の問いかけの意味を掴みかねる。

「トーマの頼みなら〝頼みがある〟と云うはず。それを〝頼みごとを持ってきた〟と云うんだから誰かの依頼を引き受けてきたってことだ。――で、誰の?」

「衿沢先輩ってわかる? 三年生の、吹奏楽部の」

「新聞出てたひと?」

「そうそう。お祖父さんがピアニストとして有名で、本人もトランペット奏者として将来を嘱望されてる」

「ふうん――」

 キトラはまだ無関心そうに、焼きいもの残りを囓る。新聞の中身まで読んでいるわけではないらしい。ぼくも知識としては同程度だ。新聞には演奏会でのソロパートの写真が載っていた。華のあるひとだなと思ったことを憶えている。

 そのひとが、吹奏楽部の後輩そしてクラスメートを経由し、さらにぼくを通してキトラに依頼を持ちかけてきた。

 ぼくは彼女から聞いた話をそのまま繰り返した。

 

「――五十年前の銃声に興味はない?」

 (続きは『蒼鴉城』第48号でお楽しみください)