涯際

式月秀

 

 

 男はブルーシートの擦れ合う物音に目を覚ました。寝そべったまま、硬い寝床に痛みつけられた右肩を揉む。

 しばらくして砂利が踏みつけられる音がした。隣の青年が起き出して、いつもの南のコンビニまで出かけて行ったのだろう。男は思った。そのコンビニは青年の縄張りだった。

 ブルーシートを捲り上げる。日の出は過ぎたようだ。

 部屋――ブルーシートと段ボールで仕上げた一畳半の寝床――の隅に置いた#襤褸#ぼろ#靴を取る。酸っぱい臭いが男の鼻を突いた。擦り切れて細くなった紐をきつく結び外に出る。公園に唯一つの蛇口の方に向かった。男がふと公園の入り口の方に目を見やると、朝の散歩に勤しむ老夫婦とゴールデンレトリバーの姿があった。話し込んでいた老夫婦は物音に気づき男を見る。

 男と老夫婦の目が合った。

 束の間の静寂の後、三者の間に気まずさが漂う。

 老夫婦の足元のゴールデンレトリバーが吠えた。老夫婦はやりづらそうな苦笑を浮かべ、会釈をした。

 男も会釈を返す。

 老夫婦はそのまま、引き攣った笑顔を浮かべ歩き去って行った。ほんの少し急ぎ足で。

 ここは俺達みたいなのがいるからまともな人間は近寄らんさ。一番の古株の老人が言っていたことを男は思い出した。

 それは間違いなかった。三か月前までは男もあちら側――ここを避ける側の人間だった。

 老夫婦の背中を見送りながら蛇口を捻る。生温い流水の中で手を擦り合わせると、よじれた垢が手の中で踊り、流れていく。しばらく念入りに擦れば、真っ赤な掌に生命線だけがくっきりと浮かび上がるようになる。男が鼻を近づけても不快な臭いは感じられない。汚れは落とせたはずだ。嗅覚が麻痺しているのかもしれないが。

 両手で水を掬い上げ顔を洗う。黒みを帯びた水が滴り落ちた。もう一度水を掬い上げる。口に含み、吐き出す。これを三度繰り返す。うがいの後、ふた口ほど水を飲み込んで渇きを満たす。水分が身体の内側を流れ落ちてゆくのが分かった。

 男はふとさっきの足音を思い出した。遠ざかってゆく足音だけで水音は全くしなかった。

 隣の青年は顔も洗わずにコンビニに出かけたのだろうか。

 男は疑問に思った。隣の青年は、誰よりも衛生に気を使っていた。

 それでなくとも俺らは見た目で忌避されるんだから、せめて臭いぐらいは気にかけておけよ。

 青年はそう言っていた。

 青年のテント――男のと一辺が密着するように置かれている――に近寄って試みにブルーシートを捲ってみる。

 あの青年が奥に頭を置いて寝転んでいた。汚れとも元の色とも判らない茶色いシャツに、擦り切れて膝から糸切れが飛び出している半パン。足元には襤褸のボストンと中身の詰まった三十五リットルの半透明のポリ袋。

 コンビニに行ったんじゃなかったのか、と男が声を掛けてみるが返事はない。間を置いて次は、そろそろコンビニに行く時間じゃないのか、と訊いてみる。

 青年は身じろぎ一つしない。半パンから伸びる毛むくじゃらの脚を二、三度叩いてみるがやはり反応はなかった。顔の方に目をやると、どこかから拾ってきた使い途のないスマートフォンとちぎれかけの財布。その財布の下にクシャクシャに丸められた一枚の紙がある。

 これを売ればしばらくは食い繋げるからな。まあしばらくは死にはせんさ。とはいえ最終手段だけどな。

 そう言って青年が皺を引き延ばしながら見せてきたことを思い出した。

 その瞬間、男の身体は動いていた。土足のまま青年のテントに足を踏み入れる。彼が起きぬよう細心の注意を払いながら、もう二歩ほど進む。財布に手が届くところまで着く。体を沈め、手を伸ばした。財布を持ち上げる。カサっという音がした。青年はまだ寝ている。そしてその紙を取り上げた。

 青年のテントを抜け出すと財布とその紙を抱えたまま、自分のテントに戻り財布だけ掴んだ。男は走った。

 

 

 薄赤色の空の向こう、ビルの谷間から陽が覗いている。夏の終わりを感じさせる風は夜勤明けでなければ心地良かったであろう。

 疲労感の溜まった右肩を回しながらアパート一階の集合ポストの前に立つ。四掛ける四の全十六室分のポストが並んでいる。その右下隅、一〇四のポストを開ける。

 今日二〇二二年九月二十五日付の朝刊と、その上にV・ナウモフの『Nの生涯』が乗っていた。古書店の店先に並んだ棚から運試しに一つ選んで買ったものだ。殺されたある青年Nの生涯を彼の友人の作家が辿り、彼の生前の言動に逐一意味づけしていく話だった。あまり趣味が良いとは思えないものだった。

 三週間前、沙理がうちの本棚から借りて行ったものだ。沙理のアパートと最寄り駅の間にうちはある。出勤時にでも立ち寄ったのだろう。

 ――直接返してくれれば良かったものを。

 沙理に本を貸したことはこれまで幾度もあるが、ポストに入れて返されるのは初めてのことだった。

 本と新聞を取る。その下から宅配寿司とパチンコ屋のチラシが現れた。その二つはズボンのポケットに乱暴に突っ込み、ポストを閉めた。

 朝刊一面の見出しに目を通しながら、部屋に向かう。ポケットの中でぐしゃぐしゃのチラシに押し込められている鍵を取り出し、扉を開けた。

 嗅ぎなれた#黴#かび#臭さと汗臭さが鼻をつく。ここ二週間まともに掃除をしていない。朝刊とナウモフは机に置かれたノートパソコンの上に置く。リュックサックは床に放り、帰り道で買ったコンビニの弁当は袋のまま冷蔵庫に入れた。

 汗で背中に張り付いたシャツを苦労して脱ぐ。ズボンと下着も脱ぎ捨て――ポケットのチラシは溢れるゴミ山の上に置いておいた――早々に風呂場に入った。

 シャワーの水栓を捻る。溢れ出る水が温かくなるのを待つのさえ厭い、六時間の労働で被った排気ガスと粘度を帯びた汗を洗い流す。

 早々に全身を洗い終え、風呂場横の棚から引っ張り出したバスタオルで体の水滴を拭う。

 転がったゴミを避けながら、髪も濡れたままに敷きっぱなしの布団の中に潜り込んだ。

 しみの目立つ天井を眺めながら、全身に疲労を感じる。太腿からふくらはぎにかけてじんわりとしたしびれ。右肩の凝り。ヘルメットに押さえつけられていた後頭部に手をやると、柔らかな突起が出来ていた。たんこぶだった。

 布団から手を伸ばし、枕元に置いてある電灯のリモコンを取る。灯を消すと、カーテンの隙間から光が漏れる。

 窓外を小学生が駆けていく気配がした。

 

 

「夏を作った人は反省してほしいね」

 そうめんを茹でている僕の後ろでテレビを見ていた沙理が言った。

「じゃあそうめんはいらないか」

 僕はそう返す。

「それとこれは別だよ。私達はもう夏という義務を課されてしまっているんだから、なんとかして楽しまないと」

 テレビに目を向けると、ちょうど天気予報が終わったところだった。

「夏なんて言葉がなかったら、私達はもうちょっとこの苦痛と正対せずに済んだかもしれないのに」

 そうぼやきながら沙理は手の中でリモコンをくるくると回している。

 (続きは『蒼鴉城』第48号でお楽しみください)