ハベトロットの花嫁

神谷貴

 

      1

 

 穏やかな午後の日差しが、細い路地に降り注いでいる。無機質なコンクリートの壁に、当たっては散らばる光の粒が見えるようだ。

 慣れない裏通りの空気に緊張していたわたしは、危うく目的の場所を見逃すところだった。

 外壁の薄汚れた、四階建ての雑居ビル。その二階に、橋場探偵事務所は居を構えているらしい。路地に面した一階部分には喫茶店が入っているが、これがなんとも寂れた印象の店構えだ。間違っても、イケメン店員が働いていて地元のJKに大人気、などといった雰囲気ではない。

 喫茶店の入口の右横に、上階に続く狭い階段がぽっかりと口を開けていた。わたしはトンネルのような薄暗い空間を見上げ、なにか落ちてこないかと待ち構える。時間をかけて、生唾をごくりと呑み込み、それでもなにも起きないと分かると、意を決してステップに足を踏み出したのだった。

 急な階段を、おっかなびっくり上りきれば、さらに上階に向かう階段の左手に、一枚のアルミドアが待ち受けている。胸の高さには、『橋場探偵事務所』とのかすれかけた印字が。最初は表札が傾いているのかと思い、とっさに手を伸ばして直そうとしたが、実際には印刷そのものが表札の向きからずれているのだった。

 ドアの向こうからは、なんの音も聞こえてこない。まるで建物全体が午睡にまどろんでいるかのようだ。人を小馬鹿にしたみたいに、首を傾げ続ける表札の文字を睨んだまま、わたしはまた逡巡していた。

 これからわたしがしようとしていることは、無駄なお節介かもしれない。誰かのためになるどころか、別の誰かに迷惑をかける可能性すらある。

 それでも、衝動に突き動かされるようにして、ここまで来た。いま、わたしがなにか行動を起こさずにいて、その結果として#亜里沙#ありさ#が傷つくような事態が待っていたら、きっと悔やんでも悔やみきれないから。

 大きく息を吸うと、きっとまなじりを引き締め、わたしはドアを叩いた。

「はいはい。開いてますよ」

 思いがけず素早い反応があった。が、ドア越しに聞くその声はどうにも呑気な印象で、つい拍子抜けしてしまう。

「失礼します」

 ひと声呼びかけて、わたしはアルミドアのノブに手を掛けた。

 入ったところは、八畳ほどの長方形の部屋だった。予想していたよりも、小ざっぱりと片づいている。手前に向かい合わせのソファーセットが、その奥には、窓を背にしてスチールの書き物デスクが置かれている。右手の壁際には、ファイルが詰まった同じくスチールのキャビネット。

 デスクの奥の椅子から、いましも立ち上がった男と、目が合った。まだ若い青年だ。こちらを見つめる目が、意外そうに丸くなる。向こうは向こうで、わたしの年齢に訝しさを覚えたのだろう。

「あの、橋場探偵事務所ですよね」

 機先を制するように、わたしはデスクのほうに声を投げかけた。青年は一瞬、ぼんやりと立ち尽くしていたが、すぐに我に返った様子で、

「はい、まあ。仕事の依頼ですか」

「そうです」

 わたしがきっぱりと頷くと、彼はデスクの前を離れ、

「分かりました。では、おかけして、少々お待ちください」

 そう言い残して、キャビネットの横のドアへと入っていく。

 いきなり、ひとりぼっちにされてしまった。とりあえず、ソファーセットのもとに歩み寄ると、手前のほうのソファーに腰を下ろした。

 しばらくして、青年は隣の部屋から戻ってきた。グラスの載った丸盆を両手に抱えている。

「すみませんね。ちょうど今日は、事務員の子が休んでるもんで」

 気さくな口調で言いながら、わたしのすぐ前のローテーブルにグラスを置く。

 彼がお盆を片づけにいっている間に、わたしはグラスの飲み物に口をつけた。よく冷えた麦茶である。ちょうど初夏の陽光の中をくぐってきたばかりの喉に心地よい。

 青年はソファーセットに戻ってくると、わたしの向かいに腰を下ろした。

「はじめまして。橋場探偵事務所の所長を務めてます、橋場有紀です」

 自己紹介をすると、ややくたびれたジャケットの内側から名刺を出す。それを受け取りながら、わたしは相手を観察した。

 年の頃は二十代半ば。短く刈った髪は清潔な感じで、事務所の内装と同様、すっきりした顔立ちをしている。中背で引き締まった身体つきだが、優しげでどこか朴訥そうな眼差しは、私立探偵というイメージからするといささか頼りない。

 相手のほうもやはりわたしの容貌を眺めながら、

「失礼ですが、まず、お名前とお住まいのところを教えてもらっていいですか」

「宮代風夏といいます。御崎町内のアパートで、ひとり暮らしをしています」

 わたしははきはきと返答する。橋場は探るようにわずかに目を細め、

「大学生、かな?」

 年齢的には仕事に就いていてもおかしくないはずだが、彼がそう判じたのは、わたしの身なりにどこか浮世離れしたところを見出したからだろう。洞察力はそれなりにあるようだ。

「いいえ。実は、ミュージシャンをしていまして」

 わたしが答えると、橋場は怪訝そうな顔をした。

「宮代、風夏……悪いけど、聞いたことないな」

「……まあ、そんなに有名じゃありませんからね。せいぜい路上で歌ったり、SNSで配信したりといった程度です。フウカというハンドルネームなんで、一度調べてみてください」

「分かった。今度、聴いてみるよ」

 橋場はにこやかに頷くと、一転して真面目な表情になり、

「直接的な話をするけど、うちはそれなりに取りますよ。だいたい三、四十万、それとは別に、経費もかかります」

「承知しています。それくらいなら、なんとか。わたしの大切なひとの安否と引き換えと思えばね」

 わたしも重々しく頷きを返す。その返答にただならぬものを感じたのだろう、橋場の瞳に真剣そうな光が宿る。

「ご依頼の内容は、なんでしょうか」

「人捜しです。行方不明になった、従姉を見つけてほしいのです」

 わたしは単刀直入に答える。

「従姉さんは、いつ頃から行方不明に?」

「昨夜からです」

 すると、橋場は急にぽかんとしたような顔になった。

「……それは、昨夜から、ということですか」

 そんな間の抜けた確認をしてくる。

「それはもなにも、言葉のとおりですよ。従姉は町内のマンションに両親と一緒に住んでるんですが、昨日の夕方に職場を出たきり、日付が変わった現在もまだ、帰宅しないんです。スマホは持っているはずなんですけど、どれだけ連絡しても反応が返ってきません」

 橋場はゆっくりとした所作で、ソファーに背を預けた。すっかり困惑している様子だ。

 彼の態度ももっともではある。わたしは畳みかけるように説明を続けた。

「従姉は普段から、こういったことにはマメな性格で、長時間家に戻らないときは、事前にきちんと親に知らせるようにしてたんです。しかも、彼女は結婚を間近に控えてます。実は三日後が挙式なんです。ただでさえ予定が入り組んでるのに、このうえ家族に無用な迷惑をかけることなんて、絶対にしません」

 橋場は面倒くさそうにソファーから身体を起こしながら、

「いやね、だからこそ、という考え方もできるでしょう。マリッジブルーなんて言葉もあるくらいだ」

「でも、ほかにも不安要素があるんです」

 わたしは口を尖らせて言った。

「もしかしたら、彼女はなんらかの事件に巻き込まれたのかもしれない」

 橋場はうさんくさそうな顔つきだ。わたしはカバンからスマホを取り出すと、画面に一枚の写真を映し出し、彼に手渡した。

「……これは?」

「従姉の住んでるマンションの裏庭で撮りました。今朝になって、マンションの壁にそんなものが発見されたんです」

 写真は、一面に薄いレンガ色の壁を写していた。壁面に、真っ赤なペンキのようなもので、文字が綴られている。

 

  我が名はハベトロット

  花嫁を守護する者なり

 

 一文字の大きさは直径十センチほど。横書きで、ミミズがのたくったような不気味な筆跡だ。

「……なんだこりゃ」

 橋場は間の抜けた声で呟いた。

「はべ……なんだろう、この名前」

「あとで説明します。それより、どうですか」

 スマホの画面に見入る彼の顔を、わたしはのぞき込んだ。

「その落書き、犯行声明とも取れるでしょう。花嫁の身柄は我々が預かった、というね」

「…………」

「あのマンションで、近々結婚を控えてる女性は、わたしの従姉だけです」

 彼は混乱気味の様子でわたしにスマホを返すと、こう尋ねた。

「遅くなりましたが、従姉さんの名前はなんというんですか?」

 探偵の顔をじっと観察しながら、わたしは答えた。

「遠野、亜里沙です」

「…………」

 橋場は無表情のまま、居住まいを正した。

「それで? もし、その遠野さんが行方不明になったのが、あなたの考えるように拉致監禁事件だとすれば、おれの出る幕じゃない。それは警察の領分だ」

「分かってます。ですが、これだけの根拠では、警察は動いてくれません」

「動けないのは、おれだって同じだが」

「いえ、橋場さんなら、この事件を他人事じゃなく捉えてくれると思ったものですから」

 わたしの言葉に、橋場はすっと目を細めた。

「……それは、どういう意味だ?」

 口の端にうっすらと笑みを浮かべ、わたしは言った。

「だって、橋場さん、亜里沙の元カレじゃないですか」

 

      2

 

 わたしが、いわゆる『ハベトロット事件』以前に遠野亜里沙と会ったのは、賀東晴樹と彼女の結婚式のちょうど一週間前、六月四日の土曜日が最後だった。

 学生街の片隅にある喫茶店〈止まり木〉の店内は、待ちに待ったような薄着姿の若者たちで、なかなかの賑わいを見せている。わたしと亜里沙は窓際のテーブルを挟み、午後のお茶を楽しんでいた。外の通りでは、夏の明るい日差しがいっぱいに降り注ぎ、町全体が浮かれ弾んでいるようだ。

 アイスコーヒーのグラスに差したストローをゆっくり回しながら、亜里沙は口を開いた。

「ねぇ、風夏。この前の話は、考えてくれてる?」

 従姉の顔を見つめながら、わたしは頷いた。

「うん、大丈夫だよ」

「わたしの結婚式に、風夏がやってきて」

「新郎を、ぶん殴ればいいんでしょ」

(続きは『蒼鴉城』第48号でお楽しみください)