漂泊の唄

神谷貴

      1

 

 花村はなむら美杜みもりはデスクの向こう側で、革張りの椅子に身を預け、険しい表情をしていた。スーツの胸の前で曲げた右肘を左手で支え、口元近くで止めた右手の指先からは煙草の紫煙が当てどなく立ち昇っている。

「――なるほど。これはまた、奇特な手紙を送ってくる輩もいたもんだ」

 デスクを挟んで突っ立ったまま、志野しの秋人あきひとは手に持った紙片と彼女の顔を見比べた。美杜はなにも言わない。

 花村リゾート本社ビルの社長室はある種、壮麗な空間だった。

 天井は見上げるほどに高く、壁は闇を映した鏡のような黒塗り。床一面に敷かれたえんじ色の絨毯はみごとなまでに毛並みがそろい、まるで巨大なスポンジケーキの上を歩いているかのようだ。社長用デスクに向かい合って右手の壁は全面ガラス張りになっており、オフィス街の夜景を手のひらに載せて鑑賞できる。反対側の壁は一部が大きな四角い窪みとなっていて、あられもない姿で水浴びに興じる女神たちの大理石の像が飾られていた。彼女たちの艶姿を鑑賞できることが、秋人がこの社長室を訪れる数少ない楽しみのひとつだった。

 ややあって、美杜が口を開いた。

「どう思う、その手紙について。志野、私はお前の意見が聞きたい」

 疲れたような、ものぐさな口調だった。ほっそりした小顔だが、そこに刻まれたしわは深く、鋭い。短く切りそろえた髪には、ぽつぽつと白いものが混じっている。秋人が初めて会った頃から、目に見えて彼女は変わった。が、それは決して、彼女が生来持っていた美しさを損なうものではなかった。

「……どうって言われてもね」

 秋人はわざと軽薄そうに言って、紙片を指先にぶら下げてみせた。

「いまどきこんなレトロな脅迫状を作る奴がいるとは、って驚いてる。印刷技術に関する観念が二十世紀で止まってるんじゃないっすか、こいつ」

 紙片をきちんと持ち直すと、秋人は改めて紙面に視線を走らせた。葉書サイズの紙に、活字を切り抜いて貼りつけたことがありありと判る、大きさもフォントもばらばらの文字で次のような短い文章が記されていた。

 

  花村美杜

  お前に復讐の鉄ついを下す

  宮代和雄の味わった苦しみを

  お前も思い知るがいい

 

「その紙が今朝、私の屋敷の郵便ポストに入っていたんだ。郵送されたものではなく、直接ポストに投げ込まれたようでね。脅迫の文面がむき出しだったから、郵便物を運んできたメイドは血相を変えていたよ」

「なるほどな」

 美杜の説明に、秋人はいい加減に頷いて、

「まあ、この花村リゾートを一代で築き上げたあんたのことだ。恨んでる奴なんざ、数え上げればきりがないだろう。もっとも、今回に関していえば、文面に差出人のヒントがあるな。どうやら、この前世紀からの脅迫者は、宮代みやしろ和雄かずおという男の仇を討とうとしているらしい。どうだい。美杜サンには、この名前になにか心当たりはないのか?」

 美杜はぴくりとも表情を変えず、

「それが、私に思い当たる節はなかったんだ」

「おいおい」

「だから、頑張って思い出した。十年前に完成した、〈ディープブルー・ホテル〉があるだろう」

「ああ。それこそ、花村リゾートが手がけてきた中で最大規模の事業じゃねぇか。俺たちにとっちゃ、まさに不滅の金字塔だ」

「そうだ。だが、その金字塔を建てるにも、いろいろと障害が多かった。その最たるものが、土地の住人の立ち退きを巡る交渉だった。当時、住人たちの中で特に激しく抵抗していた一派がいて、その先頭に立っていたのが宮代和雄だ」

 ひゅう、と秋人は口笛を吹き上げた。

「ビンゴじゃねぇか。そんときの騒ぎは、俺もよく憶えてるぜ。なんせ、あんたが俺を拾ってくれて間もなくのことだったからな。反対派の連中に対する攻略もずいぶんと難航していた印象だったけど、結局どうやって立ち退きに賛同させたんだっけか?」

 美杜は微笑んだ。傍で見ていてまったく心の和まない笑みだった。

「なに、穏便に交渉を進めていってもよかったんだが、当時はなにかとコストが惜しくてね。苦渋の決断だったけれど、最終的に〈人狼一族〉の力を借りて、ちょちょっと強引に掃除させてもらったよ」

「……マジか」

 うそ寒さのこもった呻き声を秋人は漏らした。

「で、当の宮代和雄はどうなったんだ?」

「立ち退きの要求を呑んで、一家そろって代替地に移り住んでもらった。だが、転居後の新生活がうまくいかなかったらしいな。一年後に病死している。享年、五十六歳」

「なるほどな。背景は理解できたぜ」

 秋人は立ったまま片手で自分の腿を叩いた。

「要するに、宮代和雄の死の原因は、その〈ディープブルー・ホテル〉建設に際した立ち退き騒動にあると、そう考えてる奴がいるってことだ。そいつがこの脅迫状を、わざわざてめぇ自身で屋敷のポストに投げ入れてきた。どこの誰か知らねぇが、執念深いというか、マメだねぇ」

 秋人は「で?」と言って、デスクの向こうの美杜を見やった。

「俺が今日呼ばれたのは、要するにその差出人を突き止めろ、ってわけか?」

「そうだ」

 女社長は重々しく頷いた。

「なに、私だって、顔も知らん人間からの脅しなど慣れているさ。いつもなら無視するところだが、そいつに関してはちょっとばかり引っかかってね。志野も言っていたが、脅迫状の形式といい、送付の手口といい、今回はやけに手が込んでいる。どうやら、いままでの有象無象とは、少し異なる人種のような気がするんだ。ま、半分は私個人の好奇心だな」

 そこでやっと美杜は柔らかい表情を浮かべた。

「だが、志野もそれで特に文句はないだろう。少なくとも、普段の仕事よりはずっと気楽だと思うが」

「ああ」

 秋人はにやりと笑った。

透野とおのグループの〈アンデッド部隊〉と撃ち合ったりしたのに比べりゃ、のんびりしたもんさ。いや、それにしてもあんときゃマジでヤバかった。さすがの俺も、最悪、七つある命のひとつを捨てる覚悟だったからな」

 美杜は満足したように、右手の煙草を唇に持っていった。

「それで、なにか取っかかりはあるのか?」

 秋人はぴんと脅迫状を指で弾いた。紙片はひらひらと舞って、デスクの上、美杜のすぐ目の前に落ちる。

「要するに、脅迫状を寄こしてきた容疑者だ。たぶん、そいつは死んだ宮代和雄に近しい人間だろう。家族といったあたりが妥当な候補かな」

「ああ。今朝、この脅迫状を受け取って、私のほうでもおおよそ調べてみた。宮代和雄の家族は妻と、娘がひとり。ふたりとも、一家の主人が死んだあとも立ち退き後の転居先で暮らしていたが、妻のほうはほんの一ヶ月前に亡くなっている。心筋梗塞による、とつぜんの死だったようだ」

「娘のほうは?」

「それが少々、厄介なんだ」

 美杜は難しい顔つきをした。

「実のところ、宮代和雄の娘は去年、高校を卒業するとともに、母親と一緒に暮らしていた家を出ている。いま、どこでなにをしているのかも、私が調べた範囲では不明だった。彼女は宮代和雄の最後の血縁者だ。当人が脅迫状の差出人であるにしろ、そうでないにしろ、今回の調査を進めるうえで最初の要となるのは彼女の存在だろう。居場所をつかむのは喫緊の課題だ」

 秋人はあごに手を当て、しばらく考えた。

「……判った。とりあえず、そこから手をつけてみるとするよ」

 美杜はふっと表情を和らげて、

「まあ、そんなに気張らなくていい。それに、脅迫者の正体を突き止めれば、あとの処理はこちらでやる。志野は今回、ただの私立探偵になったと思って、私の依頼をこなしてくれ」

 秋人は口元で笑った。

「オーケイ。その依頼、引き受けたよ。で、話はこれで終わりかな。なら、そろそろお暇させてもらうが」

 絨毯の上で踵を返そうとする秋人を、美杜は呼び止めた。

「待った。もうひとつ、志野にしておきたい話がある」

「なんだい?」

 秋人は振り返って、デスクのほうを見た。

「私の娘のことだ」

せりちゃんがどうかしたか」

「お前たち、最近なにかと仲よくつるんでるようだな」

 美杜は柔らかく笑っていた。まるで、一瞬前と人が変わってしまったかのようだった。

「あの子をあまり、お前の仕事に連れ回さないでくれるか」

「……そう言われても、本人がついてきたがるんでね」

 秋人は眉根を寄せてみせた。美杜は静かな口調で、

「お前に任せている仕事は危険が多い。それに不潔だ。あんな醜く汚い世界を、あの子には経験させたくないんだ。判ってくれるか」

「ま、判らないということは決してないさ。それが自然な親心ってもんだ」

 秋人は薄く唇を曲げた。

「善処はする。あとは、それであいつが素直に引き下がってくれるかだな。なにをしても許されるって気がする年頃、あんたにも憶えがあるだろ?」

 皮肉な笑い声を残して、秋人は社長室をあとにしたのだった。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)