横濱エスケイプ

初棚湖東

 思いついたように、足下の小石を、こつん、と蹴った。小石は、アスファルトにこすれて乾いた音を立てながら転がり、やがて止まる。僕は一つため息をつき、重い足取りでその後を追った。日中は散々喚いていた蝉たちも、今は勢いを失っている。右手にそびえる山の向こうに日が沈もうとしていた。

「夏休みだからといって、だらけてばかりいないように。特に、君たちはもう二年生だ。自分の進路についてしっかりと考えるような期間にしてください」

 担任の香山先生の言葉だ。

「言いたいことはよく分かるんだけどさ」

 小石のところに着いた。僕はもう一つ蹴る。そう、何を言いたいのかは分かる。

 多くの生徒が一年後に受験を控えている。大学の選択はその後の人生に大きく関わってくる。だから、よく考えておけということだろう。耳にタコができるほど繰り返し聞かされてきた文句だ。

 やるべきことは分かる。そして、その指針に沿って懸命に努力を重ねた先に得られるであろう結果も痛いほどによく分かっている。自分は、勉強がとびぬけてできるというわけではない。運動が得意というわけでもない。二年間続けた卓球は人並みのままだ。何か熱中できるようなものがない。この先取り組みたいこともない。

 こんなつまらない情報をどうこねくり回したところで、できあがるのは灰色の未来予想図に決まっている。だから将来についてなんて考えたくない。

 また小石を蹴る。僕は、昔から偉人や天才の逸話が好きだった。ガリレオの振り子、ニュートンの林檎……。なんて甘美な響きだろうか。自分も彼らのようになりたい、いや、なるのだと信じていた時期もあった。けれど、成長とは残酷なものだ。年を重ねるにつれて、やるべきことが増えて、できないことが増えた。彼らの背中がどんどん遠ざかっていく。僕は、いつしか追いかけるのをやめていた。でも、いつだって彼らの虚像に向かって手を伸ばしていた。

 しかし現実は無情だった。僕が相反する思いを持て余している間にも、世界のどこかでは世紀の発見が生まれて、新たな記録が樹立されて、誰かが祝福と賞賛を浴びているのだ。

 ――そんなのは当たり前だろう?

 頭の中で冷めた声が言った。

 ――彼らが偉業を成し遂げて栄光を賜ることができるのは、それに値するだけの努力を積み重ねてきたからだ。じゃあ、君は? 君は一体何を捧げてきというんだい?

 それは……。

 ――そう。君はただ夢を歌っていただけだ。僕は君で、君は僕。だからよく分かっているよ。本当は夢を追いかける気なんてさらさらないんだろう? さしずめ、現実主義者の夢追い人と云ったところだね。反吐が出る。

 僕は、彼のまとわりつくような冷笑を耳から閉め出した。その後で、改めて目の前に転がっている小石を眺める。

 奇妙な着想が浮かんだ。ブラジルで蝶が羽ばたけばテキサスで竜巻が起こる。いわゆるバタフライ効果が本当なら、僕がこのちっぽけな小石を蹴ることで何か運命的な変化が起こったっておかしくはない。

 まあ、それはあくまで可能性の話だ。無数の要素が複雑に絡まり合ったこの世界では、微小の原因が著しい結果を引き起こす場合が全くないとはいえないというだけで、大抵の場合、微小の変化は無へと収束するのがオチだ。

 だから、今僕がこの石を思い切り蹴っ飛ばしたとしても、何もなかったかのように、この世界は変わらず回っていく。僕の未来に一切の変化は起こらない――そのはずだった。

「あ」

 どうやら蹴る足に力を込めすぎてしまったらしい。小石はかなりのスピードで飛んでいき、数メートル先の立て看板で跳ね返って左に曲がった。それにつられて僕も左を向く。そこは、歩道に面した児童公園だった。シーソーや滑り台など、懐かしさを覚える遊具がいくつか並んでいる。

 僕は入り口のポールをよけて公園に入った。そして、小石の軌跡を目で追っていったが、その時間は数秒にも満たなかったと思う。僕の目線は、すぐに公園の隅にあるブランコの方に吸い寄せられてしまったからだ。

 ブランコには、一人の少女が座っていた。川の流れを思わせる、胸まで届いた黒髪。ゆったりとした白のブラウスに、青いスカート。色を失いつつある空を背景に、彼女は少し下を向いたまま、僅かにブランコを揺らしていた。

 それは、一つの完成された風景だった。額縁で切り取られた絵画のように、そこに他の何かが入り込む余地はない。僕はただぼんやりと彼女を見つめていた。時間さえもが、淡い夕空に溶けていくような、そんな気がした。

 突然、彼女は顔を上げた。小石の音が気になったのかもしれないし、意味なんてなかったのかもしれない。いずれにしても、彼女は顔を上げた。その瞬間に、完全だった均衡は崩れた。僕は改めて、自分が彼女を見つめていることを意識した。彼女もこちらを見つめていた。彼女の目には薄く涙が溜まっていた。そして、その顔には見覚えがあった。

 一年生のときに同じクラスだった白浜綾子だ。いつも教室の隅で談笑しているような穏やかな性格で、時折見せるその笑顔に射抜かれた男子は数知れない。僕も心を動かされた一人だったが、行動に起こすほどの勇気はなく、たまに喋る程度の関係に落ち着いていた。とはいっても、この状況で彼女に背を向けて公園を出て行くのはさすがに良心が許さなかった。

「あ、白浜だ。こんなところでどうかしたの?」

 僕は、たった今彼女の存在に気づいたような顔で近づいていった。言い訳を作った後でしか行動できないのは君の悪癖だね、とせせら笑うもう一人の僕には無視を決め込む。

「田代くん……」

 彼女が僕の名前を小さく呟くのが聞こえた。どうやら忘れられてはいないようだ。僕が一方的に彼女のことを覚えているわけではないと分かり、少し安心した。

 それきり彼女はまた下を向いてしまったので、僕は、隣のブランコに腰掛けると無造作に漕ぎ始めた。時々、隣から洟をすする音が聞こえる。異性と一緒にブランコを漕いでいるというこの構図が少し気恥ずかしくなり、辺りを見回してみたが、幸いなことに公園には子供一人いなかった。

「お父さんがね」

 白浜がか細い声で言った。僕はとっさに振り向こうとしたが、思い直して耳を澄ませるだけに留めた。

「学校から帰って、お夕飯を作ってたら、お父さんが突然、体を、触らせろって、言ってきて」

 声を詰まらせながら彼女は言った。

「叩かれたりすることは、今までもあったんだけど、そんなのは初めてで、すぐに近づいてきて、すごい、酒臭い息で、逃げようと、したんだけど、腕を、掴まれて、それで、それで、……」

 彼女の声は、嗚咽でかき消された。僕は何も言うことができずに、数メートル先の地面をただ見つめていた。白浜が学校の近くのアパートで父親と二人で暮らしているというのは聞いたことがあったが、そのことについて深く考えたことはなかった。

 しばらくしてから、彼女は自分の家庭についてぽつりぽつりと語った。彼女が子供の頃はとても仲の良い三人家族だったこと。中学生のとき、母親が急病で亡くなったこと。そして、それ以来、父親は心を病んでしまったこと。

 生きる気力を半分失ってしまったようだったと彼女は言った。やがて父親は勤め先を辞め、残された保険金と日雇い労働で生計を立てるようになった。当然生活は苦しくなったが、彼女が高校で特待生になれたときには喜んで入学を認めてくれたという。娘だけが、彼に残されたもう半分の生きがいだったためだろう。

 そんな父親も酒が入ると人が変わったように荒れた。娘に強く当たり散らした。だが、酔いが醒めると彼はいつも泣きながら娘に謝った。彼は娘を愛していた。彼女はそんな父親を憎むことがどうしてもできないでいた。

 危うげなバランスでかろうじて成り立っていたこの家庭は、今日の出来事をきっかけに完全に壊れてしまったのだ。彼女は、父親に求められたその後のことを話そうとはしなかった。僕もそこには触れることなく、ただ相槌を打ち続けた。彼女が話すのをやめるまで。彼女の中に溜まったものをすっかり吐き出し尽くすまで。

 気づくと、辺りは闇に包まれていた。公園内に一本だけある街灯が、彼女の姿を照らし出している。一匹だけ鳴いていた最後の蝉が鳴くのをやめて、公園に色のない沈黙が訪れた。

「私、これからどうしたらいいんだろう」

 白浜がぽつりと言った。言った、というより、沈黙の中にうっかり声をこぼしてしまったようだった。僕は思わず彼女の方を向いた。彼女の端正な顔は涙に濡れていた。ブラウスの白が、街灯の光を静かに反射している。

 彼女は僕と目を合わせた。その目には光が宿っていた。それは辺りの闇をはじき返すくらいに力強く、それでいてどこか儚げだった。そして、彼女の顔に湛えられていた感情が堰を切って溢れ出すのを僕は見た。

「私……、逃げたい。どこかに、どこか遠くに。お父さんのことを思い出せなくなるくらい、遠い、遠い場所に」

 「逃げたい」。この四文字が僕の心を貫いた。立ち向かうのではなく、やり過ごすのでもなく、逃げる。唐突に理解した。僕は、逃避を求めていたのだ。そう、現実からも、夢からも、全てのしがらみから逃げ出すんだ。僕には、彼女の衝動が手に取るように分かったような気がした。僕らは同じだったのだと思った。

 僕は思わず立ち上がった。

「そうだよ! 逃げよう。この町から。僕らを取り巻くこの世界から」

「え……?」

 彼女は虚を突かれたような顔をした。

「私、逃げてもいいの? 田代くんも来てくれるの?」

 僕は大きく頷いた。迷いなんてなかった。

「僕も嫌気が差していたところだったんだ。一緒に逃げよう。二人ならきっと大丈夫だ」

 白浜の目元から、また涙が溢れ出した。ただ、さっきまでとは違って、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。細めた両目から大粒の雫がこぼれ落ちる。彼女は、感情だけで笑っていた。

「ありがとう、田代くん……本当にありがとう」

 彼女は涙を拭いてブランコから立ち上がった。

 まっすぐ目が合った。彼女は笑っていた。彼女の黒髪は温い風になびいていた。彼女の目は涙で輝いていた。彼女は、美しかった。

 頬が熱くなるのを感じて僕は少し視線を逸らした。

「そ、そしたら、どこに逃げようか」

 誤魔化そうとしたら声が上擦った。そして、なんと間の抜けた質問だろう。 

白浜はしばらくきょとんとしていたが、すぐに笑顔に戻った。

「そうだね……じゃあ、横浜がいい」

 この言葉を皮切りに、僕の夏休み、そして僕らの逃避行が始まった。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)