インカーベヤの娘

久遠寺悠

 インカーベヤのマーベラのことならおもしろい。

 インカーベヤというのはわたしたちの国の最北にある村で、竜の背のような長い海岸線をもつ。その多くは険しい崖で形成されているけれど、三日月型をした焼きたてのケーキのような、開けた浜辺も存在する。

 インカーベヤは土地だけは無駄に広大で、その殆どを覆うインカーベヤの森のこととなると、開発に躍起な首都・ルイナに住むわたしたちはてんでわからない。インカーベヤの森の東のはずれには数年前に国道が開通したが、南北を縦断するその道路の果てのほかに目立った集落もないこの村だから、観光業への熱意もない。

 高等学校を卒業してひとり旅に出たわたしは、だからこのインカーベヤの森であっけなく迷ったし、マーベラと出会ったのだ。

 

 

 

 一

 

 先月の私のお誕生日のときはまだお母さんもいた。お父さんが家から一番近い集落へ私の新しいハーモニカを買いに行ってくれたときも、おばあちゃんのおばあちゃんから使っていたという大きな椅子に揺られながら、お母さんと歌を歌っていた。

 鬱蒼と茂る森の中の、やや開けた空間におさまる小さな家の中で、マーベラは椅子に揺られて舟をこいでいた。日はすっかり暮れ、橙に鈍く色づく空ももう見えない。父親は離れの地下倉庫で午後から作業をしている。離れといっても地上には木板で組まれた入り口しか建っておらず、立ち入りを禁止されているマーベラはそこが何かを知らないし、こうしてひとり待つことももはや日常となってきている。ただ今日はいつもとは何かが違っていて、ハーモニカで新たな調べを奏でてゆくことにも飽きてからはずっと、回想のまどろみの中にいたのだ。

 お母さんは私のことをマーベラと呼んでいたけど、私はお母さんのことを「お母さん」と呼んだことしかなかった。お母さんはお父さんからは「ローズ」と呼ばれていた。でもそれ以外のことは知らないし、お母さんが「お母さん」でも「ローズ」でも、「お母さん」は「お母さん」だったから、「ローズ」と呼ぶお父さんには違和感があった。お母さんもお父さんを「お父さん」と呼んでいた。

 マーベラのこぐ舟は椅子を揺らしながら依然として進路不定に漂い続け、暖炉では薪がパチパチと爆ぜていた。枯れきって落ちた葉を踏む、軽やかさを感じさせる細かい音は、それらにかき消され、マーベラの耳に届いたのは古い木の扉を叩く硬質な音だけだった。びくんと跳ねたマーベラはハーモニカを床へ落とし、それに気づかぬまま背後の扉へと向かった。

 マーベラが閂を抜くと、まだ少し幼さを残した高い声が、

「こんばんは」

 震えながらそう告げた。

「どなた?」

 尋ねながら扉に触れたマーベラは、そのまま左の耳をそっと押しつけた。

「ジョン、です。西へ向かっていたのですが、野営がうまくいかなくて。途方に暮れていたらここの灯りが見えたんです。よければ一晩泊めてください」

「ひとりなの? 迷子?」

 そう言うやいなやマーベラは扉を押し開き、相手を認めるために顔を少しあげた。新しい年を迎えてすでに半月以上が経ち、いっそう鋭さを増した夜風が、びゅう、と吹きこみ、マーベラは思わずその身体を抱く。

「ひとりなのね。私もひとりなの。西へは何をしに行くの? 急いでる? もしよかったら今週末までいてちょうだい!」

 マーベラに迎え入れられた少年は、乾燥でまとまりを欠いた前髪を目元から払いながらおずおずと、

「仕事を、仕事を探していて……。インカーベヤには僕の働き口がありません。別に大急ぎでもないけど……今週末には何があるんですか?」

 小さな声を出した。扉を閉めて閂を差したマーベラは、少年を暖炉の前へ引っ張って座らせると、椅子には座らず少年の隣へ腰を下ろした。

「今週末はね、パーティがあるの!」

「パーティ?」

 少年の黒い瞳に見つめられたマーベラは、調子づいて、

「そう、パーティ! 毎月、最後の週末にはパーティをするの。お父さんが森で狩ってきた動物さんを、ぜーんぶ、まるまる使って! いつもはお肉を食べないんだけど、この日だけは特別。煮て、焼いて、たくさんのご飯が並ぶんだよ!」

 瞳を輝かせて語るマーベラに気圧されたように、少年は小さく頷く。

「あ、すごさをあんまりわかっていない顔をしてる。確かにこの村のみんなはふつう、お肉を食べようと思えば簡単に食べられるのかもしれないけどね。ここでは特別なの。生きるための験担ぎみたいなものなんだって。お父さんが言ってた」

 ちょっと待っていて、ミルクを入れてくるから。そう言い残して立ち去ったマーベラの背中を目で追いながら、少年は姿勢を崩した。このあたりには家なんてなかったから、なんとかここを見つけられて幸運だったし、見たところ歳の近そうな少女もいる。カーテンのかかった窓を鳴らす風と暖炉で燃える炎とに挟まれながら少年は、安堵のため息をもらした。

 そこへとてとてと音が聞こえ、やがて絨毯に入ったのか、るような足音でマーベラが戻ってきた。両手には白い湯気ののぼるマグを持っている。

「はい、どうぞ」

 そう言ってしゃがんだマーベラから静かにマグを受け取ると、少年は頭をさげ、ありがとう、とひとくち啜った。マーベラもひとくち飲むと、先ほど取り落としたハーモニカを拾いながめながら、ものわかりのいい口調で、

「でも、そうだよね。この村にはおばあちゃんの頃から同じものしかない。畑や果物園ばかりだって聞くもの。あとはそれらを売る人たち。西へ行ったらお仕事を見つけられるのかな。そうだといいね」

 言いながら少し上を見上げた。

 やがて、マーベラが空腹に耐えられず部屋を動きまわりだした頃、顔に立派な黒い髭をたくわえ、腹をでっぷりと腫らした男が帰ってきた。

 

     二

 

「ジョン、だったかな。君、保護者はどうしているんだ」

 薄い朝陽が差し込む食卓で、かちゃかちゃと目玉焼きを切りながら男が尋ねた。

「お父さん、ジョンはね、お母さんもお父さんもいないんだって。小さい頃の記憶はないけど、最近までずっと、東の方で、『先生』と同じくらいの子どもたちと暮らしていたらしいよ」

 昨晩飲み残して冷めきったミルクを口にしながら、マーベラが答えた。空いた手はまだ目を擦っている。

 それを聞いた父親はマーベラの割り込みをたしなめかけたが、少年の控えめな微笑に気づくと、食事の手を進めた。今日の朝食も、マーベラと男には代わりばえのしないもので、目玉焼きにサラダ、根菜のスープを、ただ口へと運び、押し流してゆくのみである。森の中で暮らす彼女たちに野菜を栽培する技術などありはしない。一番近くの集落へ、殆どは父親が、つまりたまにはマーベラが、食材を買いに行く。集落への道のりは整備されているとは言いがたいが、それでも歩けば辿りつく。そうして得た食材を、むき、切り、潰し、混ぜ、そして火を通す。名前や形、個性をもつものを、ひとくちの食事へと変身させる。それがやがて彼女らの身体をめぐり、彼女らの一部となる。彼女らが、一部となる。そこにいまさら、特別な感動はない。絶えず口に入る大きさの食事を食らい続ける彼女たちに、特別な喜びはない。だからこそ、月に一度の夕食は、ひとくちになる前の姿を捉え、自ら獲得し、余さず使いきるという意味で、マーベラにとっては「パーティ」なのである。もちろん、普段は食卓にのぼらない「肉」を食べる珍しさもなくはない。

 とはいえいまのマーベラは、父親が捕まえてきた動物が彩り豊かな食事へと変身するのを待つ身でしかない。そのことには自覚的で、少しの不満と、待っているだけで「パーティ」にありつける気楽さへの甘えた気持ちとを抱えている。

 開け放った窓からそよぐ風が、ぞんざいに端へと寄せられたカーテンをくすぐり、少年をかすかに震わせる。ミルクを飲み、サラダに関心を向けはじめたマーベラを横目に見ながら、少年はスプーンで丁寧にスープを口へと運ぶ。そうしてゆっくりと喉を動かすと、伏し目がちに正面の男へと話しかけた。

「改めて、泊めていただき、ありがとうございます」

「まあいい。君は西へ向かうらしいが、今日にでも出発するのかい。……いや、なに。マーベラも毎日寂しそうだし、マーベラから聞いたかもしれないが今週末には肉も出す。先はまだまだ長いんだ。しばらく英気を養ってはどうか」

「お父さんもこう言ってるよ、ジョン! 遠慮することはないから、一緒に遊びましょ」

 父親に加勢しながら、マーベラは、フォークで押さえた目玉焼きの膨らみを刺し、黄色を溢れさせた。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)