失墜

水環知美

 ――あの日、いっしょに笑ってくれた彼女に

 

(水環知美『失墜』)

 

 

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 ぼくは彼女の命日を知らない。

 

 

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 ぼく、というこの屈辱的な一人称に服することをこそいまこの瞬間に他ならぬぼくが犯している罪への償いの唯一の方途と認めるなら、それすらもまた一層に罪深い。

 僕、と書いてぼくがその閉塞的なひと〼のなかに閉じ込められてしまうという恐怖にも比肩して、ぼくはそのしもべという響きと同居することに対しても遥かな慄きを感じる。

 それが果たして世間一般の咎める罪深さとやらに重なるかどうかは別として、少なくともぼくのなかでは十分罪深いのだ。何よりも、そこに複数の読みが必然的に共在してしまうというような事態は、ぼくにとって避けておくに吝かではない。

 これから話す一連の物語は、だから徹底してぼくに関しての話になるだろう。彼女はぼくの友人でも恋人でもなかったし(彼女の方がどう思っていたのかは知る由もないが)、それゆえぼくが彼女について知っているいくつかのことは彼女自身の話ではない。彼女そのものではない。彼女の実相を知っている者など、彼女自身と、あとはその親友の、精々一人か二人くらいだったろうに違いない。このような臆断さえも所詮はぼくの身勝手な妄想でしかなく、彼女にとっては甚だ不愉快なものなのかも知れないが、しかし、他者というのは本来そういうもので、仮に彼女が目の前にいたとしたって彼女を語り得ぬことには変わりがない。だからぼくは彼女自身を語らずに、ぼくに現れた限りでの虚構(彼女)を描く。それくらいは許してもらってもいいんじゃないだろうか?

 

 むろん浅墓な倨傲にすぎない。見て見ぬ振りをする欺瞞にすぎない。

 つまりそれ自体が先に言ったぼくの罪深さに他ならない。

 けれど、以下ここに書きつけられるであろうぼくの記憶と記録とが、ぼくによってのみ反芻されるそれに留まるのはどう考えても不条理としか思われなかったし、あの極めて独我論的な(とぼくには感じられた)彼女にとって、彼女自身を排した彼女の周縁を、そのあやふやな現前をぼく自身やそれに類する他者に対して語ることは、彼女にとって多少なりとも面白い戯談となるのかも知れない、とぼくは独断して、ここにそれらを書きつける。

(あるいは、それによって初めて彼女の――けっしてぼくが到達し得ないような彼女自身の――聳立した視座が、根源的な他者へと向けて開かれるのかも知れない、とぼくは少なからず期待している)

 …………いや。

 すべてのそれらしく発された御託に先立って、なによりもかによりも、次の理由がぼくを突き動かすには最も大きかっただろう、即ち――

 

 ぼくは彼女のことを語らずにはいられなかったし、その手前で、彼女について沈黙しつづけることに耐えられなかった。

 

 これで果たして十分なのだろうか? ぼくが彼女について語ることの言い訳がましい前もっての釈明は。しかしのちのぼくが言うところによれば、これは釈明でさえなく、そして不十分であると同時に十分たり得るのだ。

 ――さて、とりあえずどこから始めようか……ここまできてようやっと、この長い前置きから物語の本題へと突入することが可能になる訳だが、でも(でも、と言わせてほしい)、前置こうと思えばいくらでも前置くことはできるし、歴史上の彼の諸々の書物のように、序文が本文より長いなんていうのは特別珍しいことでもないのだ。だから、これも続けようと思えばそれこそ常磐堅磐に続けられる。そうしないのは(そうできないのは)、ひとえに彼女のためなのである。

 

    2

 

「アロンは自分のコップを指して、《ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!》

 サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それはかれが長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、かれが触れるがままの事物を、……そしてそれが哲学であることをかれは望んでいたのである。」

 

 彼女と現実に初めて対面したとき、ぼくがなんとはなしに紹介したのは、サルトルがはじめて現象学と出会った、まさにそのときの光景のことだった。手元に本がなかった所為もあって、たどたどしい説明になってしまったことを覚えている。勿論そのときの彼女のきょとんとした表情も。

 話題に詰まったのか会話が途切れたのか、そもそもなぜそんな話をしようとしたのかさえぼくにははっきりと思い出せないのだが、そんなぼくの記憶力の悪さに呼応するようにして、彼女はテーブルの上に一冊の手帳を取り出して、そこにぼくの情報を書き入れていった。

 プロフィール帳。ぼくが小学校の頃に流行っていた(今もあるのか?)可愛らしいデザインに反して根掘り葉掘り尋問される例のあれだ。

 別に実際に取り出してみせた訳ではないだろう。いや本当はそうだったのかも知れないが、それはさして重要なことではないのだ――彼女はとにかくぼくから好きな食べ物や好きな教科などの空疎な、それでいて存外本質的な情報を訊きだしていった。他人のことを覚えるのが難しいから、そうやって逐一メモして不安を取り除いているらしい。

 それが彼女の他人への無関心を表しているのか、寧ろ他人への最大限の配慮なのかは分からなかったが、少なくともぼくよりは殊勝な人間だったということだろう。ぼくは他人の名前さえ頻繁に忘れてしまうくらいには自分以外に無関心で、高校の頃にクラスメイトから、興味がないんでしょ? などと言われたことを今でも鮮明に覚えている(当然そのクラスメイトの名前も覚えていない)。ときどきその顔貌さえも曖昧に解けてしまうほどだ。いま語っているこの物語だって、彼女についての話のように見えて、すべて自分のことに他ならない、というのがそのことの何よりの証左である。

 

(だから忘れてしまわないように、噛みしめるように)思い出す。

 その日は確か二度目か三度目かの再会だったと思う(やはり初めてのことではなかったのだ。しかしそんなことは――たかだか事実などというものはおおよそどうでもいいことなのだ。ぼくが、ぼくたちが語っているのは真の意味での虚構なのだから)。

 互いに興味があったし、大学で落ち合おうという約束だったのだが、生憎予定の時間に彼女は来ず、しびれを切らして電話をかけると、どうも寝起きらしい彼女の模糊とした声が聴こえた。

 大学に籍を置く身でありながら、他人と会うことが滅多にないぼくは明らかにいつもより興奮していたが、たぶん、それ以外にも要因があったのだと思う。そう、彼女に不可欠の要素。

 死にたいという感情がどれだけ普遍的で、どれほど身近なものなのかは分からないが、この頃の彼女とぼくとはともに、その抑えようのない宿痾を背負っていたと言っていいだろう。

 彼女がひょっとしたら死んでいるのではないかと、ぼくがその数分のあいだ猛烈な不安に苛まれたのは言うまでもない。だから彼女がすやすや眠っていたのを知ったとき、ぼくが心の底から安堵したのもまた、言うまでもないことだろう。

 そのあと大学のラウンジに腰を落ち着けて、二時間近く何をするでもなく駄弁っていたのだが、そのなかでぼくが出し抜けに持ち出したのが冒頭の引用部である。

 別にぼくは格別現象学に思い入れがあるとか、いかれているとかそういう訳ではないのだけれど、ある新書の本で読んだ冒頭のその一節が特に印象に残っていて、スノッブにもなりきれずに中途半端に紹介してしまったということなのだろう。本を碌に読まず碌に何かをものしもしないぼくのような人間は、そうやって仄めかすことしかできないのだろうし、きっとこの先もそうなのだろう。実際ぼくは未だにその本を積んだままに放っている。

 それはともかくとして、とにかくぼくにそのような哲学上の嗜好はなかったということだ。それがどれだけ知的に精緻な過程を通じて得られたものであるか否かは措いておいて、だからぼくは、事象そのものへ! などと言うよりは、虚構そのものへ! などと狂言をうつ。うっちゃってしまう。

 

 他愛のない話で数時間が潰れたのは、それまでにも何度か深くオンライン上で話し込んだことがあったからかも知れない。

 それはそれでよかったのだと思う。彼女の笑顔が見られたから(そのときに撮らせてくれた写真を、ぼくは後生大事にすることになる。彼の哲学者が洞察したように、そこにはいずれ来たるべきものと、もはや過ぎ去ってしまったものとが同じ一瞬間の内に同時に収められているからだ)。

 とは言えやはりぼくらはSNSやネット上で、というかそこから互いの存在を認め合ったのであり、最初に連絡を取ってきたのは彼女だった。そもそもはぼくが自分のアカウントのプロフィール欄か何かにとある曲の歌詞の一節を載せていて、それを見て彼女が反応してきたのだったと思う。

 彼女はぼくが知らない(知ろうとしない)沢山の音楽を聴いていて、ぼくの知っている(しかし無意識で避けている)書籍たちを読んでいて、そのずれ具合が、あまりにも典型的だったので、ぼくは話していくうちにいつの間にか感心してしまったのだった。

 ほんとうに世の中にはこのような人間がいるのだな、と。

 そんな半ば見下した、しかし半ば尊敬の念で溢れかえる眼差しで彼女を捉えることは無礼千万に違いなかったし、そしてそれら個々の趣味嗜好の複合で個人を捉えるなんていうのは根本的に不躾なことに他ならなかった。

 でも、他になんと言えばいいのか……今でもぼくは躊躇わずにはいられない。完全自殺マニュアルを読み、絶歌を新品で買う、楳図かずおと伊藤潤二が、マリリン・マンソンが好きな女の子、とでも言えばいいのだろうか。

 しかし当然の如く、ぼくのこの表現そのものが恣意的な選択に拠っているのであり、ぼくの知らないものはぼくに看て取られることもなく、それだからここに見出される彼女の一貫性というか、単純さは、直ちにぼく自身のそれへと跳ね返ってくるのである。

 繰り返し言うように、彼女の現実のひととなりを少しでもはっきりと覚えていたならば、こうして物語が、いや虚構としての彼女が語られることもなかったのだ。

 

 彼女の皮相しか知らないぼくが、それでも彼女の、彼女自身の真情について知り得る機会がなかったかと言えば、嘘になるだろう。本当に最初の頃、一対一のチャットでのことだった。身体の棄て去られたオンライン上では、しばしば先のような単純化・類型化が起こって、それが同調と共感を容易にするのだが、だからこそ致命的な勘違いが生じることもある。

 ――カレンダーになるのが夢なんです、と彼女は言ったのだった。

 ぼくはそこで馬鹿正直に、どういう意味? と返して、物理的に? 概念的に? などと無粋な質問を続けてしまった。

 迂闊だったことを知るのは、決まってぼくの純然たる無知によるものだったけれど、そのときは彼女からすぐにその意味するところを解説してくれた。あとで調べてなるほどと思ったが、同時に強烈に、無知で無神経な自分を恥じた。

 

 これは彼女のほんの序幕にすぎない。でも確かに彼女の真相が、ここから少しでも垣間見えるのではないかと思う。

 日付はまだ遠い。

 ぼくもまだ若かった。

 彼女はまだ知らない。

 では――、

 その日を夢見た彼女は――、

 カレンダーになれたのだろうか?

 それはこれから、きみが確かめてみてほしい。

 

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)