終わりの雨

汐崎京

 雨はやみそうにない。 

 窓ガラスを滴り落ちる幾多もの雫はそろって同じ経路をたどる。

愛想のないウエイトレスが、無言でコーヒーを置いた。ソーサーがテーブルにあたって、耳障りな音が店内に響く。ひどくしんとした、寂しい店だ。ずるずると品のない音を立てながら飲んだところで、眉を顰める客もいなかった。

こうしていつものこの席から外を眺めていると、思い出すのは決まってあの日のことだった。今日はなおさらかもしれない。

忘れもしない――なんて芝居がかった台詞は趣味じゃないけれど、どうしたって忘れることはできないだろう。人を殺した日のことなんて。

 

***

 

「今日の授業はここまで」

 教師が言い終わるが早いか、生徒たちはリュックのジッパーを閉め、一目散に教室を飛び出す。カラフルな背中が肩を並べて遠ざかっていく。閉まりきっていないリュックの隙間から丸めた紙くずがこぼれ落ちたってお構いなしである。

――最近の高校生は放課後にお喋りしたりしないものなのね。

時代かしら、と呟きながら佐々木()勝子()は紙くずを拾ってゴミ箱に捨てる。かつての自分がそうであったように放課後は外を駆けまわっているのかと思えば、そういう訳でもないようで、夕陽を浴びるグラウンドはがらんとした寂しさを見せつけてくる。

歳にするとほんの四つ上に過ぎないのだが、高校生が背伸びをしたがるのと同じように、この年頃の大学生は年寄りぶりたがるものだった。

勝つ子供と書いて、マサコ。何ゆえこんな強気な名づけにしたかといえばなんてことはない、両親から一文字ずつ貰っただけのことである。男の子が欲しかったのだろう、面と向かって言われたことはないが、祖父母の家に行くと居心地の悪さを感じた。同じ漢字を名に持つおじ様方に酒をそそいでまわるのはあまり面白い仕事とは言えなかった。

「先生、それじゃ、あとお願いね」

 三年七組の担任、鳥飼()()は巨体をゆさゆさと揺らしながら教室を出ていった。どうやら生徒の間ではTTと呼ばれているらしい。勝子自身、縁もゆかりもない土地の高校を選んだ時点で覚悟はしていたが、どうも教師たちは外部の者と卒業生とを区別したがる。数年後には違う職場にいるというのに、理解しがたい習性だった。

 放課後の教室の清掃はなぜか教育実習生の仕事だった。机に椅子を載せて、教室中を掃いてまわるのは案外骨が折れる。雑巾がけがないのは不幸中の幸いだろうか。勝子は鼻歌を歌いながら箒を躍らせる。十代の頃に流行ったアイドルソングを無性に懐かしく思ってしまうのはなぜだろうか。

ルーティンと化した作業を中断させたのは女生徒の声だった。

「センセ」

 高校生にしては妙に色っぽい、吐息まじりの台詞である。

「マサコセンセ、時間ある?」

 女生徒は扉の縦枠にもたれて、探るような視線を勝子に向けている。ウェーブのかかった髪は腰の位置まである。そのうえ耳には青いピアスときた。弱ったな、と勝子は心の中で舌打ちをした。

「あなた、校則違反ですよ。肩につく髪は結ぶようにしてください。それに、これ」

 言いながら勝子は女生徒の耳たぶを指さす。こうした、いわゆる不良生徒を相手にする時、何より大事なのは毅然とした態度をとってなめられないようにすることだ。勝子は頭の中のマニュアルを超スピードで捲りながら顎を引く。

「はいはーい。ね、ついてきてよ」

 屈託なく笑う姿は先ほどとは打って変わって、幼い少女のようだった。

 

女生徒に連れられてやってきたのは屋上だった。生徒は立ち入り禁止のはずだ。フェンスの老朽化が激しく、こっそり煙草を吸っていた不良生徒が転落しかけたのが原因だと、TTに聞いた気がする。TTは煙草なんてけしからんとかなんとか言っていたが、煙草を吸っていたのとフェンスの老朽化は全く関係ないではないかと勝子は思った。むしろその不良少年は被害者だろうと言ってやりたかったが、これ以上雑務を増やされるのはごめんだった。

 女生徒は鍵を差し込む。ギィと嫌な音を立てて、重たいドアが押し開かれる。

空には雲一つない。風に揺れる長い髪は、素直に美しかった。

「あなた、ここは立ち入り禁止って知っているでしょう。どうして鍵を持っているの」

放課後、閉鎖された高校屋上。アニメでしか見たことのない状況に、好奇心をかき立てられもしたが、教師の真似事をやめる訳にはいかなかった。

「私、不良だから」

 そう言って歯を見せて笑う女生徒の唇には、薄ピンクのグロスがひかる。不良という割には薄いメイクは――そもそも校則違反ではあるが――整った顔立ちに映えていた。

 女生徒は「まあまあ」と手招きする。勝子は教師然とした表情だけは崩さずに、言われるがまま端のフェンスに寄りかかって座った。

 こんなところを見られたら、TTにまた小言を言われるに違いない。

でも、彼女を叱るにはなんだか今日は疲れすぎていた。それに、彼女を見ると不思議と懐かしさがこみあげてくるような気がして、話をしてみたいと思ったのだ。

勝子は一つ一つ自分に言い訳をして、女生徒に向き直る。

「あなた、名前は?」

「覚えてくれてないんだ、ざーんねん」

「え、ああ。ごめんなさい。まだあんまり覚えていなくって」

 人の顔を覚えるのは苦手だが、受け持ちのクラスの生徒の顔と名前は把握しているつもりだった。一度臨時で入らされた三組の生徒だろうかと勝子は記憶をたどる。

「ユメコ、夢見る子で夢子」

「かわいらしい名前ね」

 ありがと、と笑うと夢子はスカートのポケットから飴を取り出す。色の違うキューブ状の飴が二つ連なったものだ。

「はい、どーぞ」

 夢子から手渡されたのは、黄色と桃色のセットだ。この飴にも、どこか懐かしさを感じたような気がしたが、単に小さい頃によく食べていたからだろうと結論づけた。それくらいありふれた飴だった。

小さな飴を舌の上で転がす。少し溶けてくっついてしまっている二つを舌先で分かつ。これもまた叱られるだろうか、と頭の片隅で思いはしたが、隅の隅に追いやって見ないことにした。

――やっぱり教師なんて向いてなかったんだな。

勝子は両手を床のゴム材につき、足を伸ばす。スカートから伸びるふくらはぎにひんやりとした感覚がひろがる。

「ねえ、どうして私のこと呼んだの」

 勝子は至極当然の質問をしたつもりだったから、夢子の顔が少し強張ったように見えたのが不思議だった。

「マサコセンセ、A町出身だって言ってたでしょう。私もね、同じなの。ママの転勤で小学生の時にこっちに来たの。だからびっくりしちゃって。いろいろ話せたらいいなって」

「そうなの? こんな偶然もあるのね」

 勝子が生まれ育ったのは、ここから新幹線とローカル鉄道を乗り継いで六時間の距離にある田舎町だった。子供の数より野良猫の数の方が多いのではないかというのが大人たちのお決まりのジョークだった。

大学進学でこちらに来て以来、同郷の人に出会ったのは初めてのことだ。勝子はつい気持ちが昂るのを感じていた。

勝子は自分の立場も忘れて、思い出話にふけった。それは半ば孤立しかけていた実習生活の反動でもあった。

「あの裏手の、そう、二号公園」

「えっ、知ってます。いっつも遊んでたもん。あ、それなら――」

話が盛り上がるにつれて、当時遊んでいた公園や行きつけの駄菓子屋が同じであることがわかった。狭い町ではあるが、その中でもごく近い所で生きていたということだ。その事実は、勝子の郷愁を一層駆りたてると同時に、その場から逃げ出してしまいたいと思わせた。

――こんなに近いなら、きっと彼女、あのことも知ってるわ。

勝子の心を映すように、ぽつりぽつりと雨が降り始める。予報では晴れだったのに、と思いながら、扉の側、屋根が少し張り出している所に避難した。少しずつ勢いを増す雨は、否が応でもあの日を思い出させる。

勝子は夢子の隣に腰をおろし、床のゴム材にあたっては跳ねる雨粒を見つめる。夢子のまとう空気が少し変わったような気がして、少し居心地が悪かった。

沈黙が苦しい。さっきまでのお喋りはどうしたというのか。何か、なんでもいいから話してくれないかしら。勝子は縋るような思いで夢子を見る。そんな勝子の気持ちを知ってか知らずか、夢子は口を開く。

「――センセ、十一年前のこと、覚えてますか」

心臓を鷲掴みにされたようだった。さり気なく胸元に手を置くと、バクバクと拍動しているのがわかる。――落ち着いて、落ち着いて。勝子は何気ない風を装い答える。

「十一年前って、あの廃工場の……?」

夢子は目を伏せる。YESの返事としては十分だった。

 

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)