回想のボタン

柴田楼

「昔呼ばれていたあだ名は何か」という会話がたびたび交わされるが、あだ名にしにくい姓名だとは思わないけれど自分のニックネームとして胸を張れる呼称がない。何も言わないのは申し訳ないので、仕方なくある一定期間特定の人物に「ボタンくん」と呼ばれていたことを明かすがその由来を説明するのが煩わしい。そもそもあだ名で呼んだり呼ばれたりすることがとても苦手で、人付き合いには適切な距離ってものがあり、あだ名を強要しないで欲しい。

 僕をボタンと呼んだ彼とは結局一年程度の付き合いだったが、最後に会ったときに彼は確かそのあだ名を口にしなかったと思う。

 高校三年生の二月。第一志望校の合格をウェブ上で確認するとすぐに高校へ向かった。センター試験の後から授業がなかったので、久しぶりに学ランを着て、担任に会った。うららかな日差しを肩に浴びて通学したことを覚えている。

 私立専願だったので、あの学校のなかではやや早く受験生活が終わった。学校の合格実績にはあまり貢献できなかったが、担任は素直に喜んでくれ、僕と同じように職員室に報告に来た同級生たちとしばらく廊下でだべった後にカラオケに誘われたが、こんなときでもないと話を交わさないような面子ばかりだったので丁重に断って、これで見納めかもしれないとでも思ったのだろう、僕は校内をぶらぶらと彷徨することにした。

 三年の教室には国公立の入試を控えた生徒がたくさんいた。入試直前と言ってもこの時期になると中弛みしており、テラスではキャッチボールをする生徒の姿も見られた。禁止されているのに。

 同じ文系クラスと言っても僕のいたA組と違って成績優秀者で構成されたC組でさえ、その日は賑やかだった。普段のギスギスした嫌味な空気は希釈されていた。合格のハイテンションも手伝い、僕は気後れすることなくC組へ足を踏み入れた。優等生諸君が十人近くいた。合同クラスの際に挨拶を交わす程度の人たちばかりだったけどみんな口々にお祝いの言葉を述べてくれ、こんなに気持ちのいい奴らだったっけこいつら、と思った。

 黒板を使って模擬授業みたいなことをしている和やかな人の輪から外れ、窓際の席で俯いて一人黙々と二十五カ年を解いていたのが久湊()だった。二年前とはずいぶんと容姿が変化した。自分の身体の大きさに戸惑っているかのように姿勢はいびつで、廃墟に茂った夏草のような長髪に目を背けたくなるようなニキビ面、あの頃の美少年はいなかった。不格好だ、と思った。こちらまでいたたまれない気持ちにさせる。学ランの第一ボタンまでしっかりと留めているところは唯一変わっていなかった。

 どうせこれで最後だし、と思い、声をかけてみた。やあとか久しぶりとか言って笑顔を振りまいた。時間を計っていたらしく、久湊はスマホの画面を操作して、

「うん、久しぶり」

 と答えたと思う。解らない、忘れた。だけど言葉は重要じゃない。すっかり低くなった声で冷ややかな返答をされたという印象だけが残っている。この二年で身についた自信、虚勢がすっかり吹き飛ばされ、彼と初めて出会ったときのように委縮してしまい、奴の顔色を窺うように受験は終わったかと尋ねてしまった。

「まだ始まっちゃいないよ」

 愚かだ、と思った。あまりにも愚かだった。終わっているはずがなかった。久湊は僕のことを相も変わらず愚図だと思ったに違いない。僕とは反対に国公立一本に絞っているのか、ということにも思い至らず、会話をつなげるために自由連想法的に浮かんできた彼の妹のことを尋ねて「元気だよ」とかなんとか言われ、背中を汗びっしょりにして教室を出た。今でも思い出すたびにヒヤッとして逃げ出したくなってしまう。

だけど、とも思う。あのときもまだ久湊は帰還していなかったのだと思う。目はうつろで、文字通り心ここにあらずの久湊だった。

国公立の合格発表二日前に行われた卒業式に久湊は現れなかったが他にもそういう連中はいたので特筆すべき事柄ではない。友達から聞いた話では、久湊は見事第一志望に合格し駒場に通うことになったらしい。

今頃は当然のことながら就職をしたのであろうか。

 と書いてから三週間も経った。せっかくファイルを開いたので続きを書いてみる。特に書きたいことがあるわけでもないが。

 僕の高校生活は久湊との最初の出会いから起算することにしているが、初めて見たのはそれよりも三年前のことである。通学の電車が同じで、久湊は二つ隣の駅に住んでいた。早朝の井の頭線は混んでいるが、始発駅の隣から乗る久湊は席を確保していることが多かった。大抵は文庫本を開いてうつらうつらとしていた。制服と鞄、襟の徽章から同じ中学の同じ学年の生徒であることは知っていたが知り合いではなかった。共通の友達もいない。だから彼を見かけても気にする必要はないんだが、同じ車両に乗り合わせた場合なんかは意識せざるを得なかった。久湊は毎回決まった車両に乗るわけではないのであらかじめ避けることもできない。電車の扉が開いた時点で彼の姿を目にしたらなるべく離れた場所に立つようにはしていたが、他にも井の頭線を利用する同級生がいたのに、久湊にだけ関心が向いたのは我がことながら説明できない。

いっそのこと話しかけてしまえば気は楽になったのだろうが、入学直後には無視していたくせに今になって話しかけるのは不自然なのではないかなんて自意識が働いてしまって、結局中学三年間は一度も交流を持たなかった。乗り換えのときに久湊が前を歩いていたら、彼を追い抜かないように歩調を緩め、後ろを振り向かないでいてくれるよう祈ったものだ。そのとき培った忍耐が今の財産になっている。

 僕は久湊を必要以上に意識していたが彼が僕についてどう思っていたのかは知らない。

中学二年生の頃に最寄り駅で小学校の同級生に会い、そのまま電車に乗って近況報告をする僕たちの正面の席に久湊が座っていたことがあった。本から一切視線を上げず、こちらに気づいているのかどうかも解らなかったが、彼女に男子校はどうだなんて訊かれ、それに答える僕のぎこちない会話を聞く久湊にまるで睨まれているような心持ちがしてひどく居心地が悪かった。僕の舌は空回りして言わなくていいことばかりが口から溢れ出した。

渋谷駅に到着すると僕たちよりも早く久湊は電車を降りてさっさと改札に向かっていった。これから山手線に乗り換える。彼女に「同じ学校の人じゃないの」と尋ねられると、だから何だと腹を立ててしまった。同じ学校の人間とは友達じゃないといけないみたいな口ぶりだったからだ。

 久湊と同じクラスになったのは高校一年生のときだった。中高一貫校に通っていると高校入学が大きな節目とならず、でも何となく雰囲気は変わったような気がして僕は自分を持て余していた。大学受験を考えるにはまだ早く、前年の夏に軟式テニス部を退部してからは塾へ通うでもなくその日暮らしを続けていた。何かを為そうと思えば為せるのであろうという風に無限の可能性が感じられなくもないが何から手をつければいいのか解らない。だけど焦ることはなく、時間が経過するにつれ自然と選択肢が絞られてくるはずなので、そのうち何かしらやりたいことが見つかるだろうと気楽に構えていた。

 花粉症が発症したのはこの頃だったと思う。目の痒みを抑えるため眼球の周囲を揉みほぐし痒みの成分を排出するように涙を何度も何度も絞り出したが下瞼がしわしわになるだけだった。

というわけでこの年の春は以降もお世話になるマスクを着用して毎日学校に通っていた。

 新しいクラスにはまだ友達がいなかった。それまで親しくしていた軟式テニス部の連中とは退部以来付き合いが悪くなっていた。別のクラスには友達が数人いたがわざわざ会いに行くほどではない。僕は自分が何者でもないような気持ちがした。今この瞬間に僕のことを考えていてくれるような人間は世界のどこにも存在しないのだと思った。

ある日、授業が終わると、僕は高井戸駅にある本屋へ向かった。この日は一日誰とも喋らなかったと思う。学校では、誰も僕のことを見ていないはずなのに、たえず柔らかなプレッシャーを感じ、僕は僕という人間であるよう、何故か僕がそうでなければならないと思える人物になるよう強いられている気がした。だけど放課後の僕には透明人間のように無数の選択肢があった。四月の第一週、第二週は、まだ授業が本格化していなかったのでまるっきり暇で、日が暮れるまで本屋をはしごすることにしていた。

一度渋谷に寄ったので高井戸に着いたのは四時半頃だった。駅構内にある小さな本屋だったが、雑多な本を取り揃えており、毎回ちょっとした発見があって好きな本屋だった。

そこに彼がいた。久湊が漫画の棚の前に立っていた。漫画の棚の前に立って潮出版社から出ている手塚治虫の『ブッダ』全十二巻のボックスを手に取って眺めていた。すでに講談社の手塚治虫文庫全集は刊行されていたが依然他社の文庫や単行本も並立して置いてあった。ところで複数の出版社がいまだに手塚治虫の文庫や愛蔵版やオリジナル版を競うように出しているが、漫画のコーナーのスペースを余計に取るのでそろそろやめにしてもらいたい。

同じクラスになってからも久湊と話したことはなかった。出席番号が離れていた、ということもあるが、僕と同じくクラスで孤立していると言っても久湊のそれは僕とはやや違い、周囲の人間を寄せつけない圧を発する類のものだった。トイレで席を離れるとき以外は常に着席して姿勢を不動にし、その姿勢で読書をしているときがあれば静かに寝ているときもあった。授業時間中は模範的だとしか言えないが、ホモ・エコノミクスが存在しないのと同様にそんなに模範的な生徒が実際にいたら変な奴に見えるというものだ。新学期が始まって十日程度だったが、既に久湊はクラスの人間を取り巻くネットワークから完全に逸脱していた。

それに加え中学三年間無視し続けていたという後ろめたさもあり、久湊に声をかけるなんて所業はたとえ釈迦やキリストやマホメット、ゾロアスターやラヴクラフトに頼まれたってお断りしたいものだったが、幸いにも今の僕はマスクを着用しており、こちらを振り返ったところで僕が誰か気づかないだろうと安心し、文芸書のコーナーを物色することにした。

普段の僕ならそこで油断しなかった。花粉症のせいで頭がぼーっとしていたことも悪かった。買いたい本は渋谷で買ったのだからさっさとそこを立ち去ればよかったのだ。

『ブッダ』の購入を決めたのだろう、むふーっと頬を膨らませ、久湊は棚の向こうに立つ僕に気がついてしまった。

視線が頬に突き刺さり痛かった。だけど大丈夫、向こうだって誰だか解らないような同級生に声をかけるタイプじゃないはずだ。僕は一度も彼に顔を向けていない。お互いに気づかなかったふりをするのが双方にとっての利益じゃないか?

「**くんだよね?」

 僕の背後に立った久湊が僕の名前を呼んだ。

 振り向いて、そのとき初めて久湊に気づいたように眉を上げ、マスクを外して「えっと……久湊くん?」と自信なさげに僕は言った。

 こくりと頷き久湊は柔らかな髪を揺らした。照明に一瞬透けた髪は亜麻色だった。

 僕が誰なのか見抜かれたことも驚きだったが、名前を把握されていることの衝撃の方が大きかった。久湊はクラスメイトにまったく関心のない風に見えたし、前述の通り僕は目立たない生徒だったからだ。

 僕のことがよく解ったねと言ったら、

「知ってるよ。久我山に住んでるんだよね」

 と返答された。

久湊はむしろ僕が彼のことをよく知らないのではないかと思ったらしく、自分は井の頭公園駅に住んでいて、行きの電車でよくキミを見かけた、と言った。

「こうして話すのはこれが初めてだなんておかしいね」

久湊は口の端を上げて言った。何がおかしいのかは解らなかった。

同じクラスになるまで久湊のことは知らなかったと僕は嘘をついた。人の顔を覚えるのが苦手なのだと釈明し、これからよろしくとかそのような白々しいことを言った。一刻も早く僕は一人になりたかった。

「このお店にはよく来るの?」

 久湊はまだ会話を続けたいようだった。仕方ないのでしばらく一緒に店内を回った。『ブッダ』は読んだことがあるかと訊かれ、中学生の頃に図書館で借りて読んだことがあると答えると「面白かった?」と訊かれた。面白かったと答えた。この作品に対して他にどういう答えがあるだろう。その後は確か『火の鳥』の話になった。久湊は喋るだけだったが僕は一応本棚にも目を通していたのでかなりいい加減なことを言ったと思う。が、たぶん後になって知った久湊のことを考えれば、おそらく奴が自分の好みを一方的に話していたんじゃないかな。

隣に並んでみて解ったが久湊はかなり小柄だった。高校入学で新しく買ったのであろう学ランはブカブカで、袖から指が出るのがやっとだった。眼元周りの表情筋をあまり動かさないので教室では不機嫌そうに見えたが、間近に見るとその印象はない。感情を表に出すのが苦手なだけだろう。肌が透けるように白い。身だしなみは整っているし男子校の生徒にしては驚くほどに清潔だ。一言で言えばいいとこの坊ちゃんの匂いがぷんぷんする男だった。

店内を一周したのでそろそろ本を買ってきたらどうかと切り出した。久湊はすっかり忘れていたようだった。

当然の流れとして一緒に電車を待つことになった。春が訪れたとは言え夕方になるとすっかり空気は冷たくなっていた。

このときに僕は、久湊に「第一ボタンを留めるんだね」と言った。

 学ランの第一ボタンを、普通は開けておくものだった。留めるにしても中学一年生の初めのうちだけだ。大抵の人間は周囲を見て自然と第一ボタンを開けるようになる。優等生だってそれに従った。正式の場なら別だが、第一ボタンを開けないということは一種のイデオロギーの表明を意味していた。第二ボタンまで開ける人間はチャラチャラした奴か変態と相場が決まっていたが、まだ理解はできる。

 打ち解けた空気が僕にその質問をさせた。からかう意図はなかった。ただ単純に興味があっただけだ。

 久湊は怪訝な顔で「どういうこと?」と言った。久湊と同じ車両に乗り合わせたときの圧迫感が甦った。

 こんな返答を想定していなかったので、僕は右記のようなことを述べたが久湊は返事をしないまま電車に乗った。

 二駅の辛抱だった。車内広告を眺めてやり過ごすつもりだった。僕が変なことを言ったのか? 変なのはお前じゃないか。僕がこんな思いをする筋合いはなかった。久湊は俯いて第一ボタンを弄っていた。

 最寄り駅に着く直前になってようやく久湊は口を開いた。

「キミはそういうことを気にする人なんだね」

 小ばかにした笑みを浮かべて久湊が言った。まるでこちらが異端だとでも言いたげな口ぶりだった。

 扉が開き、じゃあと言ってホームに降りようとすると、

「じゃあね、ボタンくん」

 僕にだけ聞こえる声でそう言って、久湊は手を振った。その言葉を解釈する余裕もないままに扉から吐き出された僕はその晩ずっとこの日の出来事を反芻することになった。

 それが僕の、久湊との最初の接触だった。

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)