1
波一つない澄んだ水面に、逆さまの三日月が浮かんでいる。その細さは、私が先生の弟子となってまだ日が浅いことを物語っている。風が吹いて水面にさざ波が立つと、私の胸の内にも小さな波が立った。それが両親を失った悲しさなのか、独りになった寂しさなのか、辻守優ではなく真澄晴として生きることへの不安なのか、幼い私には分からなかった。
先生の家はお寺と神社を合わせたような独特の様式だった。広い敷地のはずれにある池の、向こう岸にある離れには篝火が焚かれている。先生からは、終わるまで待っていなさいとだけ言われていた。屋敷の中だと心寂しくて、また、こうして池に映る月を眺めていたのだ。
今日も一人かな、と思っていた。けれど、その日は違った。
「へえ、良いとこだね」
池の月を眺めていたら、頭の上からやけに明るい声が降ってきた。見上げると、そこに立っていたのは同じくらいの年頃の少女だった。
「なにしてんの?」
少女はポケットに手を突っ込んだまま訊いた。
「えっと、月、見てる……」
「月?」
少女は空を見上げた。そして下のほうへ視線を移して、なるほどね、と呟いた。
「フウリュウな趣味ってやつ?」
「別に、そういうのじゃないけど……」
「そっか。でも、空に在るもんは空に在る時に見ときなよ」
少女は私の隣にどっかりと腰を下ろして、空を指差す。それにつられて、私は少女が指し示すほうに目を向ける。
そこには、夜空に白く染め抜いたような三日月が、淡い銀色に輝いていた。
「綺麗……」
「だろ?」
得意げに笑う少女は、秘密基地を自慢する少年のような、けれど窓辺でけだるげにする少女のような、不思議な雰囲気をまとっていた。
「あ、師匠たち、終わったみたいだな」
少女が向かいの離れを指して言った。篝火の灯りに、二つの影が揺れている。
「お客さんって、あなたの師匠さんなの?」
「そうそう。聞いてなかった?」
私は首を振る。
「そっか。……そういや、名前訊いてなかったな」
「ああ、そうだね」
「私は夜風。鴉羽堂夜風」
私は辻守優、と言いそうになって、それをごくんと飲み込んだ。ここでは、私の名前は真澄晴だ、と先日教わったばかりだった。
「私は……真澄晴」
「よろしくな、晴」
「うん、よろしく」
三日月の下、夜風と私の浅からぬ縁が始まった日だった。
2
「天照らす日輪、闇照らす月輪、真映す水鑑、影を映し照らしたる此が鏡に依りて、映す身を照らし明かしたまえ」
薄暗い拝みの間、拝み棚には丸い銅鏡が置かれ、その前で私は咒を唱える。後ろで結果を待つ、拝み客の緊張した息遣いが手に取るように分かる。窒息ぎりぎりの、短い呼吸。
「映したまえ照らしたまえ応えたまえ!」
声を張り上げて、手に結んだ印の中にある鏡を視る。小さな鏡がキラリと光り、拝み棚の鏡の下に置かれた人形がかすかに二度動いた。動いたのは、左足首と右足の脛だ。拝み客が膝から下に障りを受けているのは間違いないが、その力が徐々に弱まっている、という反応だ。
「……結果が出ました」
印を解き、後ろで正座している拝み客のほうを向く。
「ど、どうでしたか?」
顔を上げる彼女の顔は、不安の色で濃く染められている。できるだけ落ち着いて、穏やかな声を心がけて結果を話す。
「――という結果から、障り自体はあるのですが、以前ほど深刻ではありません。足に憑いている霊の力がかなり弱まっているようです。もうじき落ちると思います」
「そう、なんですか?」
「ええ」
私はそう言って、彼女に微笑んで見せる。苦手だけれど、見えざるなにかに怯える人には、これが一番効く。
「お祓いとかは、しないんですか?」
「はい。必要ありません」
実際、拝み屋の中でも視力が良いほうの私ですら、彼女の足にしがみついた亡霊らしきモノは、ぼんやりとしか視えなかった。幽霊が自我を失った存在である亡霊の、さらに残りかすとでも言うべきモノだった。
拝みを終えたあと、私は彼女を連れて拝みの間を出た。そこからすぐ近くの事務所に連れていき、拝み料その他経費の精算をして、彼女を見送った。
空を見ると、夕焼けの切れ端が雲間から覗いていた。少し肩と首を回して伸びをしたあと、事務所でメールのチェックをした。定期的に拝み客として来る永倉さんから予約のメールが入っていた。地方公務員だという彼女は、憑かれはしないものの亡霊や魔物からの影響を受けやすい体質だった。
スケジュールを確認して、空いている日から選んでもらうことにした。
「――ふぅ」
拝みが終わって、依頼のメールをチェックして、予約の日程を組んで……と、こういう生活を続けてもうじき二年になるのだな、とカレンダーを見て思った。今日が十二月の十三日。私が弟子入りしたのが十年前の十二月十日だ。もう二年か、とそう思ったのは、きっと昨夜に見た夢のせいだろう。腐れ縁の彼女と初めて会った日の夢だ。
「夜風、なにしてるのかな」
夜風と最後に会ったのはいつだっただろうか。一昨年に一回だけ会ったっけ。あのときは私も忙しかったしな……と思い返しているうちに気がついた。
来週の二十日で私と夜風が出会ってちょうど十年になる。それにつられて、もう一つ気がついた。
私と夜風は、十年近くの間、互いの本名を知らなかったのだと。
(続きは『蒼鴉城』第49号でお楽しみください)