天然色の君へ
登蟷螂
「コカ・コーラでしょう!」
わたしがプルタブを起こした瞬間、車いすに座った八橋さん、八橋登美子さんが嬉しそうな声を上げる。
「コカ・コーラでしょう! それ」
わたしは手元の缶を見つめる。青色の缶には「Pepsi」とアルファベット五文字。
いえ、と口を開きかけた時、すぐそばにいたみさきから、わき腹を強く小突かれる。「そうですよ。コカ・コーラ、美味しいですよね」と白々しく朗らかな声。
痛むわき腹を摩りながら。わたしが睨みつけてやると、みさきは人差し指を立てて、自分の唇に軽く当てる。
「コカ・コーラ、好きなんですか?」
「いいえ、全然」皺だらけの口を尖らせて。「口の中がイガイガするでしょう。薬の味もべっとり残るわ。どうしてアメリカの人たちは、あんなものが好きなのかしら」
眉のあたりに手をかざして、青い空を睨みつける。八月の末、雨上がりの空には入道雲と、衰え知らずの大きな太陽。「今日、暑いですからね。戻った方がいいんじゃないですか。病棟に」
みさきがわたしのわき腹を小突く。「失礼なこと言わないでよ」
「あら、今日は涼しいじゃない」八橋さんはワンテンポ遅れて、的外れな返事。「けれど、そうね。日に焼けちゃうわ。こんなに日差しが強いんだもの」
「あいあいさー」みさきは車いすを押して、中庭の真ん中に植えられた大きな楠の木陰に向かう。雨粒を乗せた楠の葉は、重たく垂れさがっている。「レイン・ツリーだ」
「日本語があるなら、日本語を使うべきでしょう」嬉しそうなみさきと対照的に、八橋さんは呆れ顔。「樟脳の匂いがするわ。楠ね」
「ええ」と返事をしたのはわたし。
みさきは楠から滴り落ちる雨粒が八橋さんにあたらないよう、ベストポジションを探している。
「楠の下なら、ベンチがあるでしょう?」
「これですか?」みさきが指さしたのは、色あせたプラスチック製のベンチ。座面には所々小さな水溜りができていて、とても座る気にはなれない。
「わたしたち、ベンチに座ったわ」周波数がずれたように、八橋さんの声がかすれた。「あの日も、涼しい夏の日だったわ」
「今と同じくらいピーカンの?」ベンチのそばで、みさきは足を止める。楠の木陰は雨を含んで、ひんやりと涼しい。
「ええ」とみさきの問いに頷いて。「でも、あの日は月がカンカン照りだったわ」
「月が、カンカン照り?」およそそぐわない二つの単語に、思わず首を傾げてしまう。
「月がカンカン照りの日は」八橋さんは脅かすように言う。「顔が真っ白に焼けちゃうの。まるで、白人さんみたいに」
「美白効果だ」
「別にきれいなんかじゃないわ」みさきのからかうような声に、八橋さんはむきになって返す。「あなたたち、女の子でしょう。日本の、女の子でしょう。白くったって、きれいじゃないわ」
「九十歳、でしたっけ? もう少し上?」八橋さんに聞こえないよう、声を潜めてみさきに囁く。
「八十九歳。上に見積もるのは失礼じゃない? しっかり話せるわけだし」
「けど……」八橋さんはぼんやりと中空を見つめている。「なんだか、変な回路が入ってるように見えますよ」
みさきはちらりと空に目を向けた。「まあ、聞くだけ聞いてみたら。何か、取っ掛かりになるかもしれない」
「取っ掛かり?」会話の断片が聞こえたのだろう。八橋さんはゆっくりとこちらを振り返る。「取っ掛かりって、なんの?」
「コカ・コーラ、嫌いなんですか? 美味しいのに」切り替え方が唐突で、声には焦りが混じっている。
そんなへたくそな誤魔化しに八橋さんは深々と頷いた。「嫌いだわ。全然、美味しくなんてない。だけど」世界の秘密を教えてくれるように、少しだけ声を潜めて。「思い出と一緒にあるものは、愛さなければいけなくなるの」
「どんなに嫌いなものでも?」
八橋さんは頷いた。「大嫌いでも、憎んでいても、愛してしまうことってあるのよ」
「呪いみたいに言いますね」
「呪いじゃないわ。絶望よ」
しん、とわたしたちの間を天使が通り過ぎていった。
沈黙を嫌うように、みさきはパン、と掌を合わせる。明るい口調を取り繕って。「じゃあ、八橋さんは、ちっとも好きじゃないコカ・コーラを、愛してしまったんですね?」
八橋さんのたるんだ頬が、少しだけ赤く染まった気がした。「思い出があるのよ」とは照れくささを誤魔化すように。薄くしなってしまった胸に、筋の浮いた手を置いて。
「コカ・コーラの思い出だ。ひょっとして、ロマンスの類?」
「ええ、ろまんす、よ」片仮名の四文字がたどたどしい。「大事な、ろまんす」
「隅に置けませんねえ、八橋さんも」冷やかすような古臭い口調。「カンカン照りの月っていうのも、そのロマンスの一節ですか?」
「ええ」と八橋さんは目を細める。
わたしはいたたまれなくなって、お呼びではないペプシ・コーラを一息で飲み干した。少しだけ残っていた炭酸が、イガイガと喉のあたりを刺す。
「よければ、聞かせてくださいよ。コカ・コーラの思い出を」
八橋さんは、こくりと頷く。「二十歳の時、ね。前の戦争の「意味」は決まってしまったけれど、まだ世の中にはきれいなものがほんの少しだけ残っていたわ」
ぼうっと、汽笛が鳴り響き、夜の闇が濃くなった。押し寄せる真っ黒な波の音が、波止場に重たく、低く響く。顔に差す月光が鋭さを増したような気がして、登美子は小さく身を震わせる。
「寒い?」と隣から、二十代くらいの男の声が聞こえた。「あいにくこの季節だから、外套なんかは持ってないけど」
的外れな気遣いに、登美子はクスクスと笑い声を漏らした。「暑いくらいじゃない、今日は。昼と比べれば、随分涼しくなったけれど」
海に向かう風が、登美子の髪を揺らした。しなやかな、細い黒髪は、互いにこすれ合ってさらさらとかすかな音を立てる。
「飲む?」隣から、一本の瓶が渡される。瓶の中で、液体がちゃぽちゃぽと揺れる。「喉、乾いたろ」
登美子は頷いて、瓶を手に取った。手に取った後で、警戒心を少しも抱いていない自分に驚く。知らない男から渡されたものなんて、絶対口に入れてはいけない。幾度も聞かされた言いつけも、この男の前でなら忘れてしまっていいように思えた。
瓶の口に手をやると、かぶせられた王冠が、爪と触れあってコツコツと音を立てる。
「栓抜き、持ってないわ」
「ああ、そう」瓶を持つ登美子の右手にごつごつした男の手が重ねられる。
失礼な人、と言って引っ込めてやったら、どんな顔をするだろう。
そんな悪戯めいた妄想は、小さな破裂音で破られる。「何、これ?」登美子は目の前の瓶をしげしげと見つめた。
「コカ・コーラ。飲んだこと、ない?」
驚きが、あからさまに顔に出たのだろう。男の得意げな口調が癪に障る。「別に、少しびっくりしただけだわ。栓抜き、持ってたの?」
「手、出してみ」主導権はまだ、男の方にある。登美子はおずおずと、左手を開いた。男はひんやりとした小さな丸い金属片を登美子の掌に落とす。
登美子は金属片を掌で転がし、目の前にかざす。「五銭玉?」
(続きは『蒼鴉城』第48号でお楽しみください)