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僕たちが受ける五限のドイツ語の授業は、授業という制度に対して独自の理念を持つ先生が受け持っていた。その詳細は省くが、些細な例のひとつとしてタイムカードがあり、遅刻や早退、あるいは数分間教室を離れる学生は、先生にその旨を伝える必要はないが、代わりに先生がドア近くの机に用意したプリントにその都度時刻と名前、入退室した理由を記入することになっていた。
たいていの学生はバイトやトイレ、前の授業が延びただのサークルだのと代り映えのしない理由を記入していたが野崎メルモは違っていた。
なぜか彼女は毎回五分から十分程度遅刻をしていた。メルモは眼鏡を真っ白
に曇らせてドアを開けると、背中を丸めて申し訳なさそうに先生の目の前の席に座るのだった。着席してから十分くらいは息が荒い。
授業中、十五分に一度は席を立った。そろりそろりと歩を進めるのだがのんびりしているせいでなおさら板書が見えにくくなることをメルモはわかっていたのだろうか。
結局メルモは半分ほどしか授業をまともに受けないのだった。
あまりにも頻繁に教室を出るので、先生が掟を破ってメルモに声をかけたことがあった。
「野崎さん、どこに行くんですか?」
夕日を浴びにちょっと、とメルモは小さい声で答えた。
授業が終わると一目散に帰る。スーパーのタイムセールに向かうらしい。僕たちの楽しみはその日のタイムカードを先生が回収する前に眺めることで、メルモの欄には「散歩」や「瞑想」、「お茶」だのといったことが読みにくい字で書かれてあるのだった。
メルモは矢作山のボロアパートで一人暮らしをしており、畳の上でごろごろしながら映画を見るのが好きだった。一日に一度、夜の九時ごろに実家の母親から電話がかかってくるので、そのときだけは酔っぱらっていてもちゃんとした受け答えをしなければならなかった。留年するかもしれないことをいつ切り出せばいいのか、メルモは日々様子をうかがっていた。
夜には矢作神社まで散歩することもあったが、丑の刻参りをする女性を見てからは控えていた。キャンパスで一度彼女らしき学生を見かけたことがある。時計台の前でラジカセに合わせて踊る日中の姿と、藁人形に釘を打ち込む深夜の姿がメルモの中でうまく結ばれなかった。
大学二回生の春に休学して実家に戻ったメルモは毎日バスに乗ってあてもなく町をぐるぐると循環していた。母親の作ってくれたおむすびを車内でこっそり食べることもあった。水を飲むの野崎こんなに下手だったっけ。メルモは水筒の中身をたびたび零すのでいつも胸元が湿っていた。
その日、御茶屋みつは校門を出るとバス停に向かった。「フローラ女子中・高校前」。みつの家は学校の徒歩圏内だったが、体育で膝を痛めた今日に限ってはなけなしのお小遣い(一〇〇円)を費やして車輪という文明の利器に頼らざるを得ないのだった。
バスは定刻通りに来た。六割がた埋まった座席はほぼ高齢者で占められていた。後ろの四人席の右端にみつは座った。左端にはメルモが座っていた。
メルモはみつの制服を見遣ると声をかけた。
「あ、もしかしてフローラの子?」
みつが答えるより先に、メルモは窓から後方を振り返り、「やっぱりフローラだ」と頷いた。
「中学生でしょ?」
まごつくみつを無視してメルモは続ける。
「中学生は確かネクタイが臙脂色なんだよね。野崎、フローラ受けたからそういうこと知ってるの。アハハ。つっても落ちたんだけどね」
メルモは話しているうちにもぞもぞと横滑りして、みつの隣にピッタリとくっついた。
「野崎、現在療養中なの」
みつは思わずまじまじと見つめてしまった。
「大丈夫ですか」
「平気だけど、日本で十人くらいしか患者のいない難病でさ。アハハ。あ、感染る病気じゃないから安心して。余命二年なんだけどね。死ぬときはいつもひとり、ってそりゃ誰でもそうだわ」
「あの、わたしもうじき降りるんで」
牽制するように言うとメルモはどこで降りるのか尋ねた。停留所の番号を告げると、
「ボタンは野崎に任せて」
もうじき、とは言ったもののまだ四つも先だった。
「そうだ、紅茶飲む?」
脇の手提げ鞄から水筒を取り出した。
「いやいやいや」
「あそう、チェッ」
わざとらしく口をとがらせて、メルモは蓋のコップに紅茶を注いだ。その手はぷるぷると震えていた。
「美味しいのにな~」
コップから口を離すと顎から雫が垂れていた。それを袖で拭って見せる。
ほかの乗客からの視線をみつは気にしていた。全身が発熱しているのを感じた。
メルモは約束通り、腕を伸ばしてみつの頭部の傍にある降車ボタンを押した。こちらの顔を覗き込むので、みつは愛想笑いを返した。
みつと同時にメルモも降りた。近所に住んでいるのかと訊くと、バス停の案内掲示板に貼ってある路線図の、こことちょうど反対側の停留所をメルモは指さした。
「たまには歩こうと思って」
そう言ってみつの横に並んで歩き始めた。メルモは小柄だったので、中学三年生のみつと背丈がそう変わらなかった。
「いいんですか? いや、別にこちらは迷惑とかじゃないんですけど、むしろその、野崎、さん? の、家からどんどん離れてますけど」
何の変哲もない住宅街をメルモは物珍しそうに眺め、
「野崎、こっちにいるときは全然地元になんか興味なかったんだよね。お洒落ぶったテーマパークみたいな町だと思ってさ。でも案外いいよね。このフェンスの向こうの空き地は何? 草原?」
「あ、ここは昔、製薬会社の工場があったらしくて、わたしが幼稚園児のころから何もないです」
「小学生だ。ペンギンみたい」
メルモの関心の対象は前方を歩くランドセルに移行した。
「この辺は方参小?」
「そうです」
小学生の下校時刻と重なった。弟のむさしが近くにいないことをみつは願った。
メルモが手提げ鞄から携帯電話を取り出した。小学生を撮るのかと思いきや携帯電話を握りしめたまま、ハムスターの背中のように撫で始めた。
案の定メルモはそわそわし始め、
「嫌ならさ、いいんだけど、アハハ、メルアド交換しない?」
と切り出した。
「いいですよ」
みつも気軽に応じた。業者の詐欺メールに返信してしばらくやり取りを続けたときと同様の好奇心からみつはメルモと赤外線を交わした。
「あ、やばい、今野崎嬉しいかも」
「ちょっと寄りたいところがあるんでそろそろお別れしてもいいですか?」
「え? いいよ。どうせ暇だし野崎もついてくよ」
「ごめんなさい、ちょっとアレなので……」
「あ、デリケート? プライベート? な話題だった? ごめんごめん、野崎、そういうとこ鈍感で」
何かを察したつもりでメルモは身を引いた。
いつでも連絡してね、と言われ、みつは送り出された。メルモの気に障らぬようにみつは何度も頭を下げると、尾行対策として少し迂回をしてから家に帰った。
あれだけ馴れ馴れしかったわりに一度も名前を訊かれなかったことにみつは気がついた。
(続きは『蒼鴉城46号』で)