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初夏のキャンパスは、華やかな活気に満ちていた。
ちょうど三限目が終わった時刻だ。次の講義へと急ぐ者、いそいそと帰宅する者、連れ立って部活動に向かう者。気温の上昇に伴って、学生たちのまとう衣は目に見えて薄地になり、そこからのぞく肌の色が眩しい。
燦々と陽光の降り注ぐ地上は、まるで舞台のようだと、窓辺に座った恭哉は思った。役者たちは笑いさざめき、人生という名の煌びやかな脚本を熱演している。ならば、そんな彼らを見下ろすこのゼミ室はさしずめ、劇場の二階部分にあるバルコニー席といったところか。
室内は薄暗い。舞台上を照らすスポットライトの光は、観客用の座席までは届かないのだ。
「――やあ、和泉。来ていたんだね」
入口の戸が開き、若い男が部屋に入ってきた。その低く落ち着いた声にしかし、恭哉は内臓をつかまれたような気持ちになった。
「ひょっとして、しばらくゼミ室に来ないんじゃないかと思っていた。だが、とりあえずは安心したよ」
男の言葉とは裏腹に、やっぱり来るんじゃなかった、と恭哉は悔やんだ。
「……こんにちは、周防さん」
ぼそぼそした挨拶とともに、恭哉は青年のほうをちらっと見た。精緻なガラス細工を連想させる面立ちで、涼しそうなシャツ姿には嫌味がない。恭哉はせいぜいフレンドリーな笑顔を意識したつもりだったが、その目つきにこもる刺々しさは隠しようがなかった。向こうでも恭哉の抱く反意を察したようで、周防倫弘は少し困ったように眉尻を下げた。
「やっぱり気になるか。この前の例会でのことが」
恭哉は無言でそっぽを向き、唇を噛みしめる。
「確かにきみのプレゼンには間違いがあった。だけど、その間違いはうっかりによる取り違えで、発表の方向性自体に問題はなかったし、着想もなかなか面白かった。俺はきみの発表を評価したいと思ってるんだぜ」
「…………」
今さらそんなことを言われても、何の慰めにもならない。むしろ、強者の余裕を見せつけられたと感じるだけだ。
恭哉が、犯罪心理学を専攻する植坂ゼミに配属されたのは、ほんの二ヶ月前の四月のことである。メンバーは恭哉を含めてほんの七人で、毎週の例会において交替でプレゼンをすることが義務づけられている。
恭哉が初めてその担当となったのが先週の回。もともと植坂ゼミの専門内容に強い興味のあった恭哉は、張り切ってプレゼンの下調べと準備に努めた。内容に自信はあったのだ。ところがプレゼン本番、他のゼミメンバーや植坂教授の注目を一身に浴びて、恭哉は見事にあがってしまった。
生来、人前で喋ることは苦手だった。口頭での説明はとても脈絡があるとはいえないものになり、資料を掲示するための機械の操作にも手間取った。挙句に、題材として取り上げたアメリカで起きた殺人事件の、被害者と容疑者の続柄を資料で逆に記述していたことが発覚する。いたたまれなさのあまり、恭哉はそのまま発表を放り出して、ゼミ室を飛び出してしまったのだった。
そんなわけがあったので、今日の来室もずいぶんと勇気を必要とした。だが、結果としてはその勇気を仇で返された思いだ。何せ、プレゼンの際に恭哉の間違いを指摘した当人がこの、修士二年目でゼミのリーダー役を務める周防倫弘だったのだから。
恭哉を励ますことはできないと諦めたのか、周防はいつもの、屈託のない淡然とした表情に戻った。
「それにしても、いいタイミングだったよ。ちょうど、和泉に連絡しようと思っていたところだったんだ。四限目が終わった後、植坂教授の部屋に来てほしい」
「教授の部屋に……?」
恭哉の抱いた不穏な予感を、周防のほうでも敏感に察知して、
「いや、別に先週のことで小言を言うとかじゃない。実は教授のほうから、和泉に頼みたいことがあるって話なんだ」
「頼み、ですか。それは、ゼミの活動に関して……?」
「うーん、ゼミ本来の、ではないな。どちらかというと、課外活動って感じだ」
「……はあ」
どうも要領を得ない。周防は、話は終わりとばかりに踵を返しかけて、「あ、だけどな」と恭哉のほうを横目で見た。
「行って損はないと思うぜ。こいつは、なかなかロマンのある話だろうから」
楽しそうな顔で謎の台詞を残し、先輩はゼミ室を後にしたのだった。
飾り気のない白いドアだった。恭哉はいっとき躊躇した後、部屋主の移動表が『在室』を指しているのを改めて確認してから、ドアをノックした。
「入りなさい」
くぐもった声が聞こえてきて、恭哉はドアノブをつかんだ。
左右を書棚に挟まれた細長い部屋で、手前に小ぢんまりとした応接セットが設えられている。植坂教授の姿は、部屋の奥に置かれた書き物デスクの向こうにあった。ひじ掛けのついた回転椅子にもたれ、どうやら六面体パズルをいじっている最中のようだ。
「やあ。よく来てくれたね、和泉くん」
パズルをいじる手元から顔を上げると、植坂末彦は恭哉を見て、にこりと微笑んだ。さっぱりした薄いブルーのシャツ姿。豊かな髪には白いものが混じっているが、剽悍な顔立ちは五十三歳という年齢を感じさせない。
「……いや、こっちまで来る必要はない。そこのソファにかけなさい。私も今、そちらに移る。が、ちょっと待て」
恭哉がおずおずと応接セットのソファに座ると、植坂はなおもカチャカチャとパズルをいじっていたが、やがてデスクの上にそっと置いて立ち上がった。どうやら、完成は諦めたらしかった。
植坂は恭哉の向かいに腰を下ろすと、優しげに目を細めて、
「周防くんから聞いたが、今日、ゼミ室に来ていたようだね。感心だ」
「……あの、先週のことは」
恭哉が言いかけるのを、植坂は鷹揚に手を振って遮り、
「いやいや、私の見ている前だ、多少のことは構わない。が、きみは、自分のUSBメモリをゼミのパソコンに差しっぱなしにして部屋を飛び出しただろう。あれはよくない。研究に携わる者として不用心だよ。今度また、恥ずかしさのあまり逃げたくなったときも、忘れ物には気をつけなさい」
おかしなたしなめ方をすると、教授は気を取り直すように咳払いをして、
「さて、和泉くん。きみをここに呼んだ理由だが――」
が、そのとき、再び部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
教授の呼びかけに応えて、ドアが開いた。そちらを振り向いた恭哉は、思わずはっとなってしまった。
「失礼します」
静かな声とともに部屋に入ってきたのは、若い女性だった。
肌が白く端整な顔立ちで、濡れ羽色の髪は背中まである。薄桃色のワンピースをまとい、ほっそりした肩に半袖の白いカーディガンが似合っていた。
彼女は自分のほうを振り返っている恭哉に気づくと、にこっと笑って会釈した。思わず、恭哉の心臓がぴょんと跳ね上がる。楚々としていながら、煌びやかな印象を残す笑みだった。丸い瞳は澄んでいて、聡明さを感じさせた。
「植坂教授。ひょっとして彼が、勧めていただいた代理人ですか?」
恭哉が見習いたくなるような、はきはきした口調だった。植坂はいたって気さくな態度で、
「ああ、そうだ。まあ透野くんもこっちへ来て、座りなさい」
透野、と呼ばれた女性は応接セットまで歩み寄り、植坂が身体をずらしたところに腰を下ろした。恭哉と、新来の女性が向かい合う形になる。
「紹介しよう」
植坂は改まった口調になって、
「彼女は透野愛羽さん、西荷大学社会学部だ。二年生だから、和泉くんと同じ学年だな。透野くん、この青年が、私のゼミに所属する和泉恭哉くんだよ。今回のきみの依頼に対しては、彼が直接的にいろいろと動いてくれる」
透野愛羽はすぐに返事をしなかった。上品に膝をそろえた姿勢で、恭哉の顔を見つめている様子だ。恭哉のほうでもそれを見つめ返そうとして、驚いた。
彼女の表情が一変していた。唇は引き結ばれ、丸い瞳は恭哉を見据えたまま微動だにしない。そこに瞬く光に、まるで衣服を剥がされたうえに、脳の内側まで隈なく精査されているような感触を覚え、恭哉は落ち着かない気分になった。それはまさしく、人を使い、率いる者の目だった。
――なんだかまるで、王女さまの佇まいだ。
恭哉はぼんやりとした頭で、非現実的な感想を抱いた。
やがて、
「――いいでしょう。私の目から見ても、彼は合格です」
「……はあ、どうも」
訳が判らず、恭哉は曖昧に頷く。愛羽の表情はすでに、当初の柔らかいものに戻っていた。
「あの、教授」
恭哉は、何やら満足げな植坂のほうを向いて、
「さっき言ってた、依頼っていうのは、具体的に……?」
植坂は「そうだな」とあごに手をやり、
「私たちがやろうとしていることは、いわば、クーデター、といったところだ」
「く、クーデター?」
意想外のワードだった。つい先ほどの空想的な感覚が、目の前の教授の頭にも伝播したのかと思った。ところが、それに続いて当の愛羽が、畳みかけるようにこう告げたのである。
「あの男――私の父から国を奪った、卑劣な独裁者の悪徳を暴いてほしいのです。それが私から、この植坂ゼミの皆さんにお願いしたいことです」
(続きは『蒼鴉城46号』で)