黄泉へ

登蟷螂

 

ダンスホールのただれたようなネオンを背にして、路地はひっそりと静まり返っていた。バラックの群れから少し離れた場所にある木造平屋の窓にポツリとしみのように橙色の小さな火。それが路地で唯一の灯だった。強まり、弱まり、やがて細い軌跡を描いて見えなくなる。後に残された紫煙が軌跡の残像をなぞって、空へと上っていく。天高くとは呼べない場所で満月に近くなった光に薄く溶け込んでいく。

空襲でも置き去りにされた平屋だった。ひび割れだらけのガラス窓とすすけた外壁をさらしながら、ぼんやりとした表情で佇む。程度で言えばバラックよりも下等だろう。引戸には拙い手蹟で「静原探偵事務所」とある。建付けの悪くなった戸を、悪態をつきながら開く。ゲンのいい家ではある。けれど、ゲンなどというものが生活に勝ることはない。

 事務所の中に入り込むじとっと湿った八月の中で人影が動く。「早かったな」と二十後半の見た目にそぐわない焼かれたような嗄れ声。声の主は事務所の主でもある、静原一郎。薄い壁にもたれて、指先に湯呑を持ちながら。「遠かったろう、金山は」その口調はどこか非難めいて聞こえる。窓際に置かれた灰皿から煙が立ち上っている。

「今日は報告だけだったから」それと、報酬の受け取り。下駄を土間に脱ぎ捨てて、報酬が入った封筒を懐から静原に渡す。静原はしばらく封筒を見つめて、ちゃぶ台に無造作に投げ出した。

「にしても、早い」不服気に絡み、気づいたように指をはじく。「迎え火か。それならお前みたいなのはお呼びじゃないな」お前みたいなの、とは何を指すのだろう。無精ひげか、体に合わないよれた衣服か、それともすり切れた靴底か。

「あんたも似たようなものじゃないか」違いといえば無精ひげくらいか。ほとんど毎朝、手洗い場につけられた鏡を前に刃を当てている。

「それは、そうだ」笑い声は喉の奥で濁る。「飲めよ。湯呑は戸棚の中にあるだろう。一つか二つ、埃をかぶったのが」

「いるかよ。どうせカストリだろ」静原の隣に腰かける。正面に座る気にはなれなかった。正面には来客用の多少マシと言える座布団。ちゃぶ台にはショコラにキャンディ、マロン・グラッセ。リキュウルのしゃれた瓶と、不釣り合いなガラスのコップ。

「お前のためのものじゃないよ、それは」視線に気づいたのだろう。静原は牽制するように言う。

 箱も瓶も開いていなかった。「誰か来るのか、これから」

 さあ、と静原は首を傾げた。「来たのか、来るのか、それともいるのか。私にもわからないな、それは」あいまいな答えに戸惑っていると、静原は立ち上がり、窓際へ向かった。桟に置かれた灰皿の中でくすぶっていた煙草の火は、すでに消えていた。「絶やしては、いけないから」そう言いながらマッチを擦り、一口だけふかして灰皿に置いた。

「迎え火か」

 その質問に静原はうなずく。「作法なんて忘れてしまったけど、それでも、道があれば帰ってこれるだろう。迎えるなら菓子と酒だ。それ以外に必要なものは私にはわからなかった」

 窓枠に切り取られた景色の中では、煙が天高くまで届いているように見える。

「俺みたいなのはお呼びじゃないのだろう」

「ここの迎え火では別だよ。お前がお呼びじゃないのなら、私もここにいられなくなる。似たようなものなんだから」畳張りの床が微かに軋む。腰を下ろして、再び壁にもたれて。

「誰が死んだ?」

その問いには答えず、カストリに口をつける。すする音の後に、ため息。平屋の中に静寂が下りる。

「女の子だよ」消えていくような声だった。雨粒が水たまりの中に落ちてとけていくような。「原田日登美。門前町の下宿屋に住んでいる」消えた言葉など忘れたように静原は言葉を続けた。

「空襲か?」

 今度は首を横に振る。「今日が初盆だから。それに、そんな大それたことで死ぬような女の子じゃない」

「なら、病気か、事故か」

 再び、同じ動作。「殺人だよ。卑怯な男が酒に混ぜた毒をそれと気づかないままに一息。今どき珍しくもないけれど」

 質問を重ねようとすると、静原は掌を向けた。「そのうち、新聞にも載るだろう。その時には詳しいことがわかる。これ以上、喋りたくないんだ。このことについては」湯呑を持ち上げ、中身を干す。次を注ごうと瓶を傾ける。しかし、動作を途中で止めて、舌打ち。「空だ」

リキュウルに向けて顎をしゃくる。「一口くらい、文句も言われないだろう」

「泥棒にはなりたくないな」言いながら、腰を浮かせる。「ちょっとばかし出かけて来るよ」

「酒屋はもう開いてないぞ」

「客だと知れば飛び起きるさ。あの親父は業突()だから」土間に向かいかけて、足を止める。ズボンから少しひしゃげた煙草二箱と、ライターを取り出して畳に放る。「戻るまででいい。火は絶やさないようにしてくれ」

「今日は、ここに泊まるのか?」

「戻ってきたら、ここで眠るよ」返事が一拍遅れたような気がした。ガタガタと言わせて戸を開く。

「ところで」とその背中に声をかけた。「なんであんたはその女の死を知っているんだ。まだ、新聞にも出ていないんだろ」

 沈黙。ややあって、「女の子だ」と訂正が入れられる。「重要なことだよ」と言い訳するように。

「じゃあ、なんであんたはその女の子の死を知っている」

「決まっているじゃないか」その声は誰かをあざ笑うように震えていた。次の言葉を言い終わると同時に、彼は外に出た。戸が閉じられる。すんなりと。

 部屋に入り込む月明かりが濃くなった気がした。窓際に目をやると、煙が消えている。マッチを擦って、煙草に火を灯す。一口だけふかしてみたが、お世辞にもうまいと言えるものではなかった。咳込みながら、灰皿に置いた。

 窓際の事務椅子に腰を掛け、ぼんやりと外の景色を眺める。静原の最後の言葉を反芻しながら。

「私が殺したからだ」その言葉ははっきりそう聞こえた。聞き間違える余地はない。

 気づけば、煙が消えている。そのたび、灰皿に煙草を置く。それを繰り返しているうちに、時計の針が日をまたいだ。二箱目はその直後に尽きた。

 静原は帰ってこなかった。最後の煙草の火が尽きた時、机の上に置かれた封筒の意味を理解した。

 封筒を手に取ると、その下からちいさな紙切れが見つかった。そこには「すまない」と四文字だけ記されていた。

拙い手蹟を握りつぶした。手切れ金は知らないうちに渡されていたのだ。

 

 

 四件の自殺をまとめた記事の中に原田日登美の名を見つけたのは翌週のことだった。三面の端におざなりに押し込まれた記事に目を止めるものなどほとんどいない。焼け跡での自殺など所詮その程度のものだった。むしろ、記事になっただけ幸いと考えるべきかもしれない。

『廿二日午後八時ごろ中区門前町一丁目十六番地原田日登美さん(二七)の服毒による自殺体が自宅にて発見された。死後一週間位を経過しているとみられ、死体は激しく腐乱していた。身寄りはなく、生活苦が理由だとみられる』

 同い年を女の子と呼べるかどうかは自信がなかった。何より、肝心なことが食い違っている。けれど名前と住所の一致は無視すべきものではなかった。

詳しいことがわかる記事ではなかった。「嘘つきめ」毒づいたところで何かが返ってくるわけでもない。事務所の中は静原がいた頃と何も変わっていなかった。カストリは一滴も減っていなかったし、灰皿は薄く汚れたまま。ライターはゆするとタプタプ音を立てた。

 ちゃぶ台の上に乗せられていた酒と菓子は戸棚の中に納まっている。扱いかねて、結局カストリの隣。

 一週間で二件の依頼が来た。これも静原がいた頃と大して変わらない。片方を断り、片方を引き受けた。主義主張があったわけではない。片方は二人以上いなければこなせない仕事だった。所長は今、大きな依頼を抱えているので。そういうと、ひとしきり愚痴交じりの嫌味を浴びせて、依頼人になり損ねた男は帰っていった。

 バラックの群れとは距離を置いていたし、それを加えても日常的にかかわる相手などいなかった。一週間程度なら所長である静原の不在をごまかすことは簡単だった。

 ごまかしたのは所長不在が与える悪影響を心配してのことだが、具体的な悪影響の中身を想定していたわけではなかった。口にしたくなかった、というのが本音だったのかもしれない。

 一週間のうちに引き受けた一件は既に終わっていた。門前町まで行く気になれた原因はそこにあるということにした。一台しかない自転車は、専用のものになっていた。事務所のがたつく扉を開き、大通りに足を踏み出す。何物にも遮られない晩夏の熱が肌を炙る。

 バラックの群れは日が当たると闇市に変わる。闇は駅の裏にできた陰に長く軒を連ねていた。瓦礫の上にいるという事実を振り払うように、闇は賑わいを見せていた。米、魚、野菜、服。足りていない何もかもがここには集まっていた。けれど、つけられた値札に、それらがやはり足りていないという事実を思い出さないわけにはいかなかった。

 闇にはところどころほころびがあり、そこから生々しい瓦礫の跡が顔をのぞかせている。足か腕が足りない軍服姿に、継ぎ接ぎだらけの薄汚れた子供。どちらの足元にも縁の欠けた茶碗が置かれていた。両手で数えられるほどの銭が無造作に放り込まれている。夜になっても、闇のほころびが繕われるということはない。彼らがいた場所には代わりに女が立つだけだった。三年足らずの急造で濃い化粧を肌になじませた女が。

 誰も他人に目を向けていなかった。その目は自分の手元にしか向いていない。なるほど、簡単だっただろう。街の中で姿を消すことは。

 駅に近づくにつれ、ネオンの残骸が増えていく。真昼の褪せた光の中で響くブギや黄色い声は、夜ほどの本物らしさを失っている。けれど、本物らしさはたとえ夜であっても本物らしさでしかなかった。瓦礫の上にはそれだけで十分だった。

 駅はがらんどうのまま、佇んでいた。今月の初めに始まったストのせいだった。昨年の二月一日は成功したが、国も無策なわけではない。怪気炎を上げているのは今や国鉄くらいなものだった。他は当時の内閣を失脚させたというだけで自分を満足させていた。ストの目的は生活から政治へと移っていた。そして、生活よりも政治を取るのは今ではよっぽどのもの好きだけ。国鉄も時間の問題だった。今では譲歩して、貨物の交通は再開している。人が通り過ぎていくだけの駅は最後のあがきの象徴だった。

 駅前の大通りに通じる道は、歩行者と自転車とが半々くらいで往来していた。その中に自転車で乗り入れる。錆のためか、キイキイと甲高い音がした。

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)