虫籠

黒森誘蛾

数日前から降り始めた雨は、正午を過ぎてもその勢いを失うことはなかった。空を見上げる人々は、先月上旬の記録的豪雨を連想し少し不安になったが、自分がそんな目に合うはずないと心のどこか奥底で思っている。高層ビル群の窓は天の灰色を映し未来を予知している。歩道に植えられた木々の葉にはナメクジが我が物顔で這っており、車道では車が苛立っているかのように汚い水飛沫を上げていた。「恵みの雨」とは言うものの、ウォーターサーバーの売り込みにとって雨は凶作をもたらすものであった。

「今日も全くうまくいきませんね」

「ここまでかすりもしないとなると、かえって清々しいわね」

 株式会社ユリウスの営業部所属の(介とその一年先輩である羽龍葵のここ数日の外回りの成果は散々なものであった。本日八月十八日は世間一般ではお盆休み明けであり、それに加えてこの連日の雨である。どう考えても好調な売れ行きになるとは思えない。

「中に入れてもらえただけでもありがたいと思えって顔、向こうさんしていましたね」

 倉畑は、どこを見ているのかいまいちわからない先輩にそう話しかける。

「それ私も思った。でも仕方ないわね。こんな時もあるわよ。こう雨が続くと人の心も曇るし、それにお盆休み明けでだるくて仕方がない人たちばかりよ。私が同じ立場だったらきっと同じような反応をするわ」

 羽龍の差すビニール傘が大粒の雨に打たれぼぼぼぼと音を立てる。

 羽龍は自分の体を見下ろす。黒のショートブーツは雨粒の侵攻を許し、ネイビーのタイトスカートは濡れて所々黒に近い色合いになっている。隣を歩く倉畑へと視線を逸らす。大きなこうもり傘は天からの猛攻より彼を守ることはできているが、地表からの跳ね返りには成す術もないようだ。

「あんたも結構濡れているわね」

「えっ? 今なんて言いました?」

 倉畑の顔を見上げる。

「会社に着替えはあるのかって」

「ああ、はい。着替えですね。ありませんよ」

「ありませんよって、どうするつもりなのよ」

「さて、どうしましょうかね」

「はあ……。会社に宿直用のジャージとかがあるからそれでも着ていなさい」

 羽龍は呆れてため息を吐くと、少しズレ下がった黒縁眼鏡を人差し指で直した。

「僕、ジャージで帰らないといけないんですか? 嫌だなあ、かっこ悪い」

「文句言わない」

 あーあとぼやくと、倉畑は愉快そうに笑った。今日はなんて一日なのだろうか。倉畑はそう思った。

 何がおかしいのだと羽龍は眉をひそめたが、能天気そうな倉畑を見ていると取引先からの嫌味も雨に溶けて流れ落ちていくかのように感じた。

 乳白色をした三階建ての会社は、長年の雨によって窓の下に暗い縦線が描かれている。建物の端は茶色を基調としたモザイクタイルが施されており、ささやかな華やかさをこの無骨な物体に添えている。二階に位置する営業部の窓からはてるてる坊主が雨空を眺めており、己の無力さと未来を嘆いている。明日の早朝も雨なら彼は首を切られてしまうのである。

 あー、帰ったらまた部長に怒られるんだろうなー。

 営業部に灯る光を見ると、倉畑は無性に帰りたくなった。

「ほら、ぼさっとしていないで入るわよ。どうせ怒られるなら早いところ終わらせる方がいいわ」

 スタスタと中に入っていく羽龍の後を倉畑は追う。切り揃えたショートヘアを揺らしながら、彼女の姿はどんどん小さくなっていく。

「あー、もっと自由になりたい」

 そんな彼のつぶやきは、降りしきる豪雨の中では誰の耳にも入らない。

 

 二人が想像していた通り、部長はその営業成績の悪さを叱責した。同室にいた仲間たちが澱んだ目で二人をチラチラと見やっていた。彼らもここ数日の営業成績が芳しくないので同情しているのであった。営業部長もその理由はわかっている。しかし理解なき他部署の人間からの嫌味によりストレスが溜まっており、部下を叱りつけて発散せざるを得ないのである。

「ほんっとムカつくわ。私達のせいじゃないっつーの。天気のせいだっつーの」

 更衣室で着替えた羽龍は給湯室に隣接する休憩室の机に突っ伏し、拳でその机をドンドンと叩いた。マグカップの中のコーヒーが怯えるようにその水面を揺らせる。簡易キッチンから倉畑が近づいてくる。手にしているカップから白い湯気がたち、宙を漂っている。

「ちょっと先輩、コーヒーが零れるじゃないですか。せっかく僕が入れたんだから。……うん、おいしい」

 自分の分のコーヒーを一口飲んで微笑んで見せる倉畑を、羽龍は机から体を少し起こして見上げる。倉畑はそんな彼女の顔を見て「あっ」と何かを思い出す。

「ああそうだ先輩、僕この間面白いものを見つけましてね、先輩に渡そうと思っていたんですよ」

 倉畑はカップを置いて慌てて出ていったかと思うと、小さな袋を持ってすぐに帰ってきた。袋から取り出したものを羽龍に自慢気に見せる。

「見てくださいよこれ。本物の蜻蛉の羽のキーホルダーですよ。珍しくないですか」

 倉畑が手にしている羽は青く透き通っており、翅脈がこの世でただ一つの模様を描いている。連なった二枚の羽が儚げに揺れる。

 羽龍はしげしげと見つめるが、あまり興味はなさそうである。

「綺麗だけれど、何かグロテスクで気持ち悪いわね……」

「これ、先輩にあげます」

「えっ」

「大丈夫ですよ。しっかり加工されているので多少雑に扱っても壊れる心配はないそうです。露店のおっさんが言っていました」

 プレゼントをもらうような心当たりが全くない羽龍は困惑する。

「でも、何で私に……」

 倉畑は気の抜けた笑顔を浮かべ、自分の頭に手をやる。

「いやー、これを見た途端先輩の顔が思い浮かんだのでつい買ってしまいました。きっとピッタリだと思って」

 そう言ってキーホルダーを倉畑は渡す。両手で受け取った羽龍はしばらくそれを見つめていた。

「……そう。ありがとう」

 羽龍は顔を上げずにそう言った。少し間をおいて倉畑を見上げたが、その全身に目をやった瞬間顔を歪ませる。

「……それにしてもダサいわね」

 倉畑が着ているのは会社の男性更衣室から拝借したものである。襟や袖がヨレヨレの黒いTシャツにはデカデカと白で「ARMY」と書かれており、目に痛い緑の短パンが嫌に主張してくる。そこからにゅっと伸びた二本の脚は黒い毛に覆われ、先端には青いスリッパが引っ掛かっている。

「僕だって好きでこんな格好をしているわけではありません。誰が置いていったんですかこれ。こんな破滅的なセンスの持ち主がこの会社に所属していただなんて信じられない。この格好で社内を歩くとガン見されたり写真を撮られたりするんですよ。中にはその写真をスマホの待ち受けにしてしばらく笑わせてもらうよって言ってくる奴もいるんです。本当に恥ずかしい」

と、倉畑は大げさにため息を吐いてみせる。

 羽龍はそれを見て笑うと片手で頬杖を突く。

「……恋人には見せられない?」

「はい。願わくば……。はあ……」

 羽龍は切れ長の目をさらに細くする。

 倉畑は手にしていたカップを机の上に置き、羽龍の正面に腰を下ろす。そして「あのー」と少し悩むそぶりを見せた後、目線を羽龍から少し逸らして話を切りだす。

「……女性ってやっぱり指輪をもらったら嬉しいものですか」

 羽龍は目を見開いた。

「急にどうしたのよ。もしかして倉畑君、結婚しちゃうの」

「いやいやいや、まだ先ですよ。いや、まだって何だ。いえ、単純に贈り物としてどうかなーって思いましてね。ちょっとした出来心ですよ」

と、倉畑は顔をほんのり赤くさせ早口で言い終える。そんな倉畑の潤む瞳を見つめると、羽龍はチラリと右下に目をやり、また視線を倉畑に戻す。その顔には意地の悪そうな笑みが浮かんでいた。

「まっ。そういうことにしておいてあげる。そりゃあ好きな人からだったら嬉しいに決まっているじゃない。とんだ愚問よ」

 倉畑は手を組んで前のめりになり、その垂れ目がちな目を輝かせる。

「ですよね。先輩のお墨付きなら大丈夫ですよね。でも、指のサイズってどうすればわかるのでしょう。ちょっと測らせてってメジャーを巻き付けるわけにはいきませんし」

「そんなもん寝ている隙に指に糸でも巻けば済むことじゃない。伸縮性のないものを。そのくらい自分で思いつきなさいよ」

「ああなるほど! その手がありましたか。なんだ簡単ですね」

 心底納得したような表情を浮かべる倉畑の姿に、羽龍はその将来を心配せずにはいられなかった。

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)