水晶の星、水銀の沼

藤月撓

Prologue: <Angelus> 薔薇の迷宮にて

 

夢へと誘う官能的な薫りが、あたりに満ちていた。

 

何年経ってもここは迷うな……。

とうとう道を覚えることはなかった薔薇園をのんびりと歩きながら、ふと感傷的な気持ちになる。

私は早くでたいでたいと足掻いて、そうして疲れて仕舞いにはどこか憎めなくなる――そんな学院という名の鳥籠を、矢張り心のどこかでは愛していたのだろう……。

 

 *

 

ふと、残像をみた気がした。

まだあどけなさが残る大きな瞳。夢のように波打つ淡い髪……。それは一年前のあの日に消えてしまった少女に似ていた。

 

迷わず追いかける。こんなに一生懸命走ったのはいつぶりだろう。そうしてぐるぐると迷宮を駆ける。花びらが飛び散り、棘が刺さる。白い制服は土で汚れる。構わずに走り続ける。

 

 

Episode 1: <invidia> 異邦人

 

私立・聖ラファエロ女学院。

七〇年の歴史をもつ女の園。戦後の混乱期、スペインから世界各地にキリスト教を広めんと尽力した聖ラファエロ・マリアの遺志を継ぎ、来訪した四人の修道女によってこの学院は開かれた。焦土と化した日本帝国にあって、その瀟洒な校舎を作るために大量の煉瓦が運び込まれる様はさぞかし目立ったことだろう。清く、正しく、美しく。その校訓を体現したような純白の制服に身を包めたのは、限られた乙女だけであった。

そうして戦後形作られた「お嬢様学校」というイメージは、時が過ぎ、豊かな時代となっても町の人々に受け継がれていった。しかしそれはひとえに可憐な乙女たちの若さという輝きに惑わされているに過ぎない。恵まれた学校生活を送った彼女たちは、我が子にも同じように恵まれた環境で育って欲しい、と娘たちを送り込んだ。彼女たちはその低迷ぶりに悪態をつきながら巣立ち、そのまた娘を送り込んだ。年を経るごとに、青春はすべからく楽しく美しいものである、という刷り込みが遠い学生の頃の記憶を歪めるのである。実態はお嬢様ぶった年頃の娘の自己陶酔を加速させる吹き溜まりでしかなかった。

 

吹き溜まり。そう、吹き溜まりだ。澱みが集まる場所。集まり、凝り固まって「わたしたち」を惑わせる場所。そしてみんな、そこに「わたし」は含まれていないと思い込んでいる――。

 

「ねえねえ、きいた?」

「ねえ、みた?」

「ねえ、みた? あの子」

「みたみた! すごいかわいい子」

「何年生?」

「名前は?」

 

その日、退屈な我が校に転校生がやってきた。

聖ラファエロ女学院は小・中・高とエスカレーター式に進級でき、望めば大学も用意されている。それぞれの節目に若干の入学者はいるけれど、学期の途中に新しい子が来る、なんてことは私の知る限り一度としてなかった。騒ぐのも無理はない。

でもそんなことは正直どうでもよかった。

私は窓に群がる同級生たちを背に、ぼんやり愛月姫の作品集をめくる。もちろん、秘密でもってきたものだ。

「展覧会、行きたいなあ」

「マリア」と名付けられた天使のように微笑む人形の写真を愛でながら、人ごとのように呟いていると、  

「レイア、本当にみなくていいの? すんごい美少女らしいよ」

その声を聞きつけたのか、「親友」のアスカがこちらにやってきた。彼女は私の美少女好きをよく心得ている。この一言でけっこう揺れた。

「……だいじょうぶ」

「そう? あっ、きた」

アスカは重そうな胸を揺すって窓際に戻る。精神的にはまだ幼いが、女性的な特徴を備えた豊満な肉体を活かす術を既に身に付けている少女だった。

転校生が黒塗りの車からでてきた途端に、鈴なりの少女たちの顔が出迎える。その中に見知った顔を見つけでもしたのか、ほんの少しだけ唇を緩めた。観客たちは騒めく。

確か、前に宝塚に入った先輩がいらっしゃったときもこんなだったような。

「どうせ、入ったら嫌でも毎日みるわよ。芸能人じゃないんだから」

なかば言い聞かせるように、しかし好奇心に勝てずにちらりと窓の外を覗いた刹那。

「……マリアにそっくり……」

私の天使が、聖マリアが舞い降りたのだった。

 

それからは、受難の日々が続いた。

同じクラスになれるよう、全身全霊を込めて(イエス様、神なる父だけに飽き足らず、それこそ「全ての天使と聖人」に)祈ったのにも関わらず、マリアは一つ下の学年だった。上級生が入学まもない一年生の面倒をみることはあっても、一つ下の学年となると中々話す機会もない。私はある人に頼んで一策を講じてもらうことにした。

 

 *

 

放課後。地下のロッカーで、私は途方に暮れていた。

「やっぱり、ない……」

真新しい靴や体操着を何度も確認した挙句、彼女はその事実を受け入れるしかできなかった。体育の授業の前に外した時計がないのだ。精巧な機械仕掛けの時計。小さな兵隊とバレリーナがオルゴールに併せてクルクル廻って、また引き離される。最近手に入れたばかりなのに……。確かにダイヤル式の鍵を閉めたはずなのに……。

「どうしたの?」

そのとき、背後から声がした。飛び上がって振り返ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。

 

「……それで、いくら探しても見つからなくて……」

事の次第を説明すると、彼女は快く協力を申し出てくれた。

「大丈夫、絶対見つかるわ。マリアは教室を探してみて。私は体育館をみてくるわね」

 

十分後、教室から戻ると、得意気な顔で腕時計を掲げる彼女が出迎えた。

「あっ……! ありがとうございます」

薄っすらと涙さえ浮かべて腕時計を嵌めると、そのまま床に崩れ落ちてしまった。気が抜けてしまったようだ。

「だっ大丈夫? 立てる?」

慌てふためいて彼女が手を差し出す。

「あの、よろしければお名前を教えてくださいませんか? お礼もしたいですし」

「いいわよそんなの」

これ以上ないほどの満面の笑みで彼女は笑う。

「私はレイア。よろしくね」

それがレイアとの出会いだった。

 

 *

 

それから、急速に私達は仲を深めていった。あの日、食堂でカフェ・オーレを愉しんだあと、共通の趣味をもっていることがわかったのだ。彼女はまだ歴が浅いらしく、私が講義をするような形で毎日放課後に話をした。

「ねえ、今度の天川可淡の展覧会、一緒に行かない?」

「行きたいです! 愛月姫のも何体か展示されるみたいですよ」

「本当? 楽しみ」

どちらも人形、特にビスクドールといわれる高価な嗜好品の作家である。まだ学生の私達は自分の人形を持っていなかったが、時折開かれる小さな展覧会には欠かさず顔を出していた。彼女は単純に同好の士と出会えたことに喜んでいるようだったが、私はそれよりもこの美しい友人を得たことに喜びを感じていた。人形を慈しむように、私は彼女の美しさを愛した。

 

 *

 

日曜日。日曜学校を休んで東京に繰り出した。東京駅で待ち合わせをした私とマリアは、揃ってギャラリーへと向かった。長い栗色の髪をなびかせ、上等な黒いワンピースを着たマリアは、本当に作り物めいていた。

私はショーウィンドウに写る自分と彼女の姿を見比べ、溜息をつく。もとはといえば、マリアが着ているワンピースは私のものだったのだ。繊細なレースと上質な黒地の絹のそれは目が回るほど高価だったが、大好きなスイーツを我慢してやっと貯めたお金で買った。でもいざ袖を通してみて、愕然とした。とにかく地味なのだ。他人様の葬式に紛れ込んでいても誰も気付かないだろう。

他にもいくつか、同じ失敗をした服をマリアにあげた。最初は遠慮していたが、学外で会っても制服を貫いていた彼女は私があげた服を着てくるようになった。どれも素晴らしく彼女の体に馴染み、オーダーメイドで誂えたかのようだった。

 

 

私は、かわいいものが好き。綺麗なものが好き。だから、お人形も好き。私自身がそうでないのはわかっているけど、少しでもかわいくなりたいし、かわいい洋服が着たい。それすらも許されないの?

 

 

ギャラリーに着くと、早速私たちは暗い館内へと足を踏み入れた。間近でみるとやっぱり迫力が全然違う。マリアは人混みをくぐり抜けるようにすいすい進んでいくが、私はひとつひとつじっくりと眺める。

最後の部屋の隅にひっそりと飾られた作品に、私の目は釘付けになった。使い込まれた小さなトランク。「ご自由にお開けください」と書かれた貼り紙がある。本当に触ってしまっていいのだろうか? 普通、人形は厳重に保護されているはずだ。キャプションをみる。作者も作品名も、何も書かれていない。不審に思いながら、そっと留め具に手をかける。

「うわあ……」

中身は空ではなかった。そこには、一人の少女が――いや、人形が、体を丸めて横たわっていた。今にも寝息が聞こえて来そうなほど、精巧に作られている。伏せられた睫毛、金糸のような髪の一本一本にいたるまで、作者の美意識が行き届いている。それは最早、人形と人間の垣根を超えてしまっていた。

こんなに綺麗なのに、不思議と他の客には見向きもされなかった。そのおかげで、私は好きなだけこの人形を眺めることができた。閉館の間際のアナウンスがあるまで、私は番人のように彼女を護り、ほんの僅かでも身動きをしないかと、注意深く観察した。

 

 *

 

私は満ち足りた気持ちで寝床に入った。どれも溜息がでるくらい綺麗だったが、中でも最後にみたトランクの人形は格別に惹かれるものがあった。あのトランクに鍵をかけて、そのまま連れ去れたらどんなにいいだろう。そしてそのまま旅にでて、二度と戻らない。彼女と共に、世界中の美しいものをみて廻るのだ。古めかしい石造りの建築物や、一面に広がる花畑や、空と溶け合うような蒼い海を。そうだ、トランクを繰り抜いて、小さな覗き窓を作ってあげよう。移動するときでも、景色がよくみえるように。それから……。

「……先輩。先輩?」

私の尽きない想像を破ったのは、マリアの声だった。

「……それで私、愛月姫の次の作品のモデルに選ばれたんです 」

「……え?」

「昨日、展覧会にいらしてて、ファンだといったら……モデルをお願いするかもしれないと……」

頭が真っ白になった。

彼女はその後も永遠に喋り続けた。次の展覧会のチケットをもらったこと。モデルの候補は他に何人かおり、選ばれたといっても暫定であること。作品のテーマ。コンセプト……。

しかしそれらは雑音として耳を通り過ぎるばかりで、何一つ頭に入っては来なかった。

(……何、それ)

(私は何年もファンだったのに……私だって、あの場にいたのに……)

(あなたが選ばれるとでも?)

私はその愛らしい顔を精一杯睨みつけた。視界が滲む。いうべきことは沢山あったはずだ。何でもいい。とにかくできる限り口汚く、彼女を罵ってやりたかった。彼女のふっくらとした桃色の唇が絶え間なく紡ぎ出す旋律を、呪詛で断ち切ってしまいたかった。でもできなかった。代わりに私はマリアがビスクドールのドレスを着て、トランクにおとなしく収まっているさまを想像した。それは素晴らしく調和がとれていた。

 

「……先輩?」

心配そうに覗き込んだマリアを押し退け、私は走って、走って、ただ走った。とにかく恥ずかしくて、惨めで、そこから逃げたかった。私がかわいくないのなんてわかってる。わかってるけど、でも、

(あなたが選ばれるとでも?)

うるさい!

(あなたにあんな服、似合うとでも?)

うるさい! うるさい!

あんなに優しかったのに、嬉しかったのに、どうして急にひどいことをいうの?

(優しかったのは、哀れんでいただけ。嬉しかったのは、あなただけ)

うるさい! うるさい! うるさい!

本当にそれは彼女の言葉だったのか? それとも、私の心の中の声なのか?

わからなかった。私はただ声を押し殺して泣いた。その涙は切望であり、絶望だった。いくら美しいものを狂おしいほど愛し求めても、私は傍観者であり、大勢の鑑賞者に過ぎなかった。すぐ隣で美しさを当然のように享受する彼女を、私は愛し、憎んだ。

 

 *

 

どれくらい時間が経ったのだろうか。私は家にいた。どうやって帰ったのかも思いだせない。

「……謝らなくちゃ……」

真っ暗な部屋の中で、彼女に連絡を取る。

そうして、道具の準備に取り掛かる。泣き腫らした目を洗い清め、その聖なる儀式を行うに相応しく、淡々と、粛々と。

 

 *

 

彼女は何の疑いもなくやってきた。

「先輩、だいじょう……」

ただ、かわいいというだけで。

私は彼女の首筋に、思いきり注射針を突き刺した。

(続きは『蒼鴉城第45号』で)