学生街のフーガ

神谷貴至

 

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「……ねぇ、本当にこっちの道で大丈夫なのか?」

 口振りにいくらか疲労をにじませて、智也(は前を歩く本浦に訊ねた。

「ああ。今度こそ間違いねぇ。俺を信じろ、多牧(

 友人は智也のほうを振り返ることもなく、自信に満ちた口調で言う。しかし、その声はどこか、から元気にも聞こえた。

「その割には、来る途中で立ち寄った古書店が見えてこないじゃないか」

「確か、松風(書房、っていったか? 俺の体感だと、あの店まではもう少し距離があるはずだぜ」

 智也の不安を背中で感じ取ったのだろうか。本浦はおもむろに振り向くと、「大丈夫だ」と白い歯を見せた。一本に束ねた長髪が翻り、傾いた陽の光で、端整な横顔に鮮やかな陰影が浮かび上がる。

「多少、遠回りはあったが、ちゃんと行きで通った道を引き返しているのは確実なんだから。その証拠に、見ろ、あそこの電柱に貼られた歯科医院の貼り紙を。多牧だって、あれに見憶えがあるはずだ」

「……なるほど。確かに、あの貼り紙は僕にも見憶えがある」

「だろ?」

「だけど僕の記憶が正しければ、あの貼り紙は行きの道中ではなく、今、帰り道を探してる中で見かけたもののはずだよ」

「なに?」

 そこで初めて、本浦は狼狽の表情を見せた。彼は立ち止まると、「うぅむ」と哲学者のような唸り声を上げた。

「つまり、この道はさっきも通ったということか……。それじゃあ次は、曲がる道を間違えないようにしないと」

「それよりもここで一旦、引き返した方がいいんじゃない?」

「いや、この道を進むのはあってるはずなんだ」

 本浦は強情に言って歩き出した。小さくため息をついて、智也もその後についていく。

 西荷(大学の同級生である本浦とは、中学校で同じクラスになって以来のつき合いだ。大雑把な性格で口調も荒っぽいが、悪い男ではない。少年時代から妙に気が合う悪友だったが、インドア派で文芸サークルに所属する智也とは対照的に、テニス部で爽やかに汗を流すスポーツマンである。容姿も優れているから、女子学生の覚えはいいはずだが、本人は同性とつるんでいるほうが、気兼ねがなくていいと思っている様子。大学に進学した今年の四月以降は、キャンパス近くのアパート〈琥珀荘〉で智也と隣どうしの下宿暮らしを送っている。

 陽もすっかり長くなった七月六日の土曜日。本浦に誘われて足を運んだ喫茶店は、西荷大学キャンパスを中央に据えた水敷(町の南部、小道が幾重にも入り組んだ一角にあった。小さな店だったが、普段は食に疎い本浦が珍しく強く勧めてきただけあって、名物のチーズケーキが絶品だった。チーズのまろやかな甘みに舌鼓を打ちながら、コーヒーカップを片手に雑談を交わすひとときは至福の一語に尽きたが、往路で本浦が二度も道を間違えたのには閉口した。

 もともとこの辺りは、西荷市随一の学生街である水敷町においても、学生アパートや自営業の店が特に密集する一帯ではあった。路地の走る方向は不規則で、階段状に曲がり角が続く道があるかと思えば、大胆に弧を描く曲線状の道が歩く者の方向感覚を狂わせる。

 ようやく、観念した様子で本浦がスマートフォンの地図アプリを起動して、目的地まで到着できたが、帰り道がまた難路だった。意地なのか、今度は本浦も地図アプリを使おうとしない。智也はもともと、その種の機能が上手に使えない。

 夕陽が、赤く禿げた頭頂を家並みの上に残して沈み、宵闇が自己顕示欲をいよいよさらけ出したとき、ようやく松風書房の古色蒼然たる影が見えてきた。

「おっし! やった、やったぞ、多牧」

 本浦が智也のほうを振り返って、大仰にガッツポーズを取ってみせた。まるで、新大陸を発見したような喜びようだ。

「ここまで来れば、後はよく知った道だ。どうだい、多牧。疲れたことだし、休憩がてら、また店に寄っていかないか?」

「やめときなよ。僕はもうそんな気力ない」

 看板には、閉店は午後七時とある。現在、六時四十五分。店内をのぞくと、林立する本棚の間から、カウンターで退屈そうな顔をする初老の店主の姿が見えた。

「――思うにだね。この辺りは、西荷市でも屈指の魔境だよ」

 夜道を並んで歩いていると、本浦が口を開いた。

「そうかな」

 首を捻ってみせつつも、智也は内心、同意するのも悪くない気分だった。

「まあでも僕は、この辺りに来るのは初めてなんだよね。ほんと、ひとりで来てたら、どうなってたか判らないや」

 控えめにそう言ってみる。

「そうなのか?」

 本浦は少し自慢そうに、

「実は俺、小さい頃にこの近くに住んでたんだ」

「へえ。それは初めて聞いた」

「それで当時も、よく迷子になってな。笑っちまうだろ、自宅の近くだっていうのに。でも、だからこそ、この魔境の恐ろしさはよく判っている」

「なるほどね」

 自信で胸を膨らませる友人を見ているうちに、ふと引っ掛かりを覚えた。

「……なんで小さい頃に住んでたのに、本浦は今、こんなに迷ってるんだ?」

「ひゅー」

 本浦は急にそっぽを向き、わざとらしい口笛を吹いた。と、その口から「おっ」と声が出た。

「……どうやらまたひとり、魔境に迷い込んだ犠牲者がいるようだぜ」

 彼の視線の先にいるのは、高校生くらいの小柄な少女だった。小さな手にメモのようなものを握り、暗くなりつつある家並みをきょろきょろ見回している。その顔に浮かんだ悲壮な不安感は、明らかに道に迷っている人間のそれだった。

「軟弱者め。十分な覚悟もなく、魔境に足を踏み入れるからだ」

 本浦が大人げない笑い方をした。疲労で心のゆとりを失っている証拠だ。

「……僕、ちょっと助けにいってくるよ」

 智也が少女のほうに歩き出すと、

「やめとけ。俺たちも疲れてるっていうのに、ミイラ取りがミイラになりでもしたらどうするつもりだ」

 と、本浦が止めた。

「でも、辺りもすっかり暗くなってきたし、遅い時間に女の子ひとりっていうのは危険だよ。ミイラだって、ひとりより二人のほうが心強いでしょ」

「……また、お前の悪い癖が出たな」

 本浦は仕方ないというようにため息をついて、渋々ついてきた。

「ねえ。ひょっとして、道に迷ってるのかな」

 智也が声をかけると、少女はびっくりしたように、きょろきょろ巡らせていた顔をこちらに向けた。

 目鼻立ちのぱっちりした、可愛らしい女の子だった。黒い髪を、ばっさりとショートカットにしている。少し日焼けした快活そうな顔に、一瞬、安堵の色が浮かんだが、それはすぐに警戒心に塗り潰されてしまった。

「目的地はこの近く? よかったら、そこまで道案内するけど」

 少女は、智也の真意を透かそうとするかのように、まじまじと見つめてきたが、

「……いいんですか?」

 やがて小さな声を出した。

「まあ、僕たちもこの辺に詳しいわけじゃないけど。でも、何か手伝えることがあるかもしれないから」

 優しい声で言うと、彼女は少しの逡巡の後、手にした紙片を智也に差し出した。受け取って見ると、手書きで水敷町内の所番地が書かれており、さらにその下には「松風書房」とあった。

 智也は無言で本浦と顔を見合わせた。彼も、横から智也の手にしたメモを読んでいたのだ。

「……あの、この場所、判ります、か?」

 智也たちの沈黙を別の意味に受け取ったのか、少女が消え入りそうな声で訊ねる。

「いや、松風書房なら知ってるよ。ここから近くだ。おいで、店の前まで案内してあげる」

 そう言って智也が来た道を引き返し出すと、

「ありがとうございます」

 少女は、少し希望を取り戻したのが判る声で言って、後ろをついてきた。

「――すみません、助けていただいて。あの。私、高梨亜美といいます。高校一年生です。浅比奈市から出てきたんです」

 松風書房に向かう道中で、少女は勝手に説明し始めた。自分には助けてもらえるだけの事情があったのだと、主張したい気持ちがあるのかもしれない。

「浅比奈市……。山間部の市だな。西荷市から電車で一時間半はかかる」

 少女の横に並んで歩きながら、本浦が言った。

「それは大変な道のりだ。旅行か何か?」

「半分は旅行です。もう半分は、西荷市に住んでる兄を訪ねに来たんです」

 高梨亜実は、七分袖のシャツにデニムのショートパンツといういで立ちで、枕程度の大きさのボストンバッグを提げていた。旅行にしては軽装だが、身内のもとに泊まるというのなら納得だ。

「でも、どうしてこんな時間に、松風書房に? あそこ、もうすぐ閉まるみたいだけど」

「平気です。実は兄は、その松風書房に住んでるんです」

「へえ。じゃあ、あのお店も親戚がやってるってこと?」

「いえ、あそこの二階は、ひと部屋を下宿として貸し出しているのだそうです。三ヶ月前、高校を卒業した兄は実家のある浅比奈市を出て、その下宿で暮らし始めたんですよ」

「なるほど、そういう事情だったんだ。長い道中だったね。ほら、着いたよ、亜実さん。そこが松風書房だ」

 入口の上に掲げられた、年季の入った看板は先ほどと変わらないが、店頭には若い女性の姿があり、シャッター棒を伸ばして店を閉めようとしているところだった。

「見つかってよかった。あの、ありがとうございました」

 亜実はペコリとお辞儀をすると、気持ちだけ急いたような小走りで店頭の女性のもとに向かった。

「やれやれ、楽な仕事で助かったぜ」

 本浦が、自分が引き受けたかのような口調で言う。

 智也は、夜空を背に建つ松風書房を見上げた。なるほど、古びた建物は二階建てになっている。今は電気が消えているが、もしかしたら、正面に二つ並ぶ窓のどちらかが、少女の兄の住居になっているのかもしれない。

「……おや?」

 本浦が不審そうな声を上げた。店頭を見ると、高梨亜実と、店の人間と思しき女性との間で、何やら揉めている。亜実が何かを訴え、それを困ったように聞いていた女性は背後の店内を見やると、「お父さん」と呼んだ。

 店内からのっそりと出てきたのは、昼間、智也たちが来店したときにも店番をしていた、店長らしき初老の男性だった。グレーの髪、尖ったあごの気難しげな男で、地味な色のベストを羽織っている。

「――ふん。高梨晃一(こういち)くんの妹、とね」

 娘らしい若い女性の説明を聞くと、男性はゆっくり頷いて亜実の顔を見据えた。

「残念ながら、娘が説明した通りだ。お兄さんはもう、この松風書房には住んでいない」

「そんな……」

 亜実が悲痛な声を上げる。智也と本浦はそっと少女の背後に寄り添った。

「どうして。私たちには、何の連絡もなかったのに。いつ、出ていったんですか?」

「二ヶ月前、四月の終わりだ。理由は知らん。ある日突然、別の下宿を見つけたから出ていきたいと言い出して、持ち物をまとめてしまったのだ」

「どこなんですか、兄が移り住んだ先は」

「それも聞いていない」

 にべもない返事だ。

「悪いな。私たちもこれ以上、知っていることはないんだ。連絡を取るなら、私たちよりもむしろ、きみからのほうが適しているんじゃないのか?」

 初老の男性はそれだけ言い捨てると、店の入口のほうを向き、シャッター棒に手を掛けた。ガラガラと無情な音を立てて、店頭のシャッターが下ろされる。

 男性は無言で店の裏に消え、若い女性も智也たちに一度、ごめんなさいのポーズをしてから、父親の後についていった。

 智也、本浦、高梨亜実の三人はおもむろに、夜の世界にポツンと取り残される形となった。少女はしばらく、朽ちたような古い松風書房のシャッターを放心の態で眺めていたが、

「……これからどうしよう」

 そのシャッターに行く手を塞がれたような声を漏らした。

「とりあえず、お兄さん――高梨晃一さんだっけ――彼に連絡を取るのが先決じゃないかな」

 智也の助言を、亜実はぼんやりした顔で聞いていたが、やがて疲れたように頷き、スマートフォンを取り出した。智也と本浦は黙って、スマホをいじる少女の手つきを見ていたが、電話でもメールでも、兄からの返事はないようだった。

「駄目みたいです」

 亜実はスマホを仕舞うと、

「今夜は、どこで休めばいいんだろう」

 と、心細げな声になった。

「浅比奈市の自宅に帰るんじゃないのか?」

 本浦が不思議そうに首を捻るが、亜実は暗い顔で首を振った。

「私の家、山間部にある浅比奈市内でも、さらに奥地なんです。浅比奈市まで電車で戻ることはできても、家までのバスがなくなってしまいます」

「親御さんに迎えにきてもらうことは?」

「うちの車、今、修理に出してるんです」

「……じゃあ、市内で夜を明かすしかないわけか。ホテルに泊まる?」

「そんなお金、持ってきてないです。兄の部屋に泊めてもらうつもりだったので」

「そりゃあ……、ちょっと待て。それなのに、兄貴に、西荷市に出てくることを知らせてなかったのか?」

 本浦がぎょっとした顔で訊くと、亜実は恥ずかしそうな顔で俯いた。

「……まさか、こんなことになるとは思わなかったので」

「こりゃ、とんだ楽観主義者だな」

 呆れたように夜空を仰ぐ本浦を、智也はたしなめた。

「本浦だって似たようなものだろ。中学生のとき、隣の市に遊びにいって財布の中身を切らしたせいで、僕が助けに行く羽目になったんじゃないか」

「確かにそんなこともあったな。そう、あのとき俺は教えられたんだ。困ったときの多牧頼み……いや」

「ちょっと待て、何だその都合のいい格言っぽいのは」

 本浦は突然、晴れやかな顔で手を叩いた。

「決めた。多牧、お前なんとかしてやれ。亜実ちゃんが、寒空の下で一夜を過ごすことがないように」

「ちょっと……そこはせめて、俺たちでなんとかしてやろう、じゃないのか」

「いいじゃねぇか、細かい言い回しくらい。どうせ、満更じゃないくせに」

「……そりゃあ」

 こちらを見つめる本浦のニヤニヤ笑いを見ていると、智也の唇も我知らずほころんだ。もちろん、不安に押し潰されそうな少女を前に、初めから他の選択肢などというものはなかった。

 智也は改めて、高梨亜実のほうに向き直った。

「亜実さん、心配しないで。亜実さんが手持ちを気にすることなく泊まれる場所を、僕たちで用意してみせる」

 亜実は驚いた顔で、

「いいんですか?」

 智也は精いっぱい、優しい表情を浮かべて頷いた。

「あ、ありがとうございます!」

「と、請け負ったはいいとして。多牧。お前、具体的な当てはあるのか?」

 本浦が腕組みをして訊いてくる。智也は力強く、右手の人差し指を突き上げた。

「とりあえず、ひとつだけある」

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)