喝采

鷲羽巧

 

     1

 

死ぬときは笑顔でいたいですね。だからあなたも、笑ってやってくださいよ

 

 笑いが絶えない通夜だったと云う。

 葬儀のしめやかさなどなく、参列者はみな笑顔だった。会場で交わされるのは故人の愉快な思い出ばかりで、そこかしこで大小の笑い声が立つ。読経の際もひとびとの笑顔は崩れることなく、通夜振る舞いでは皆が大いに飲み、語り、笑い、騒いだ。それが故人の願いだと、誰もが知っていた。

 その場ではじめて顔を合わせた参列者たちも、何度か言葉を交わせば打ち解けた。ひとりが故人と知り合った経緯を話せば、もうひとりも語りはじめ、互いの知っているエピソードに、お互い笑う。そんな光景が随所で見られた。

 ――大学の演劇サークルで一緒でした。

 ――ぼくは高校の後輩でしたよ。

 ――もしかして、あなたも演劇部。

 ――ええ、一年だけしか一緒にいませんでしたが。

 ――当時のことを聞かせてください、後輩のあなたから見た、彼のことを。

 ――そうですね、ひと言で表せば、あのひとは……。

 ――待って、それ、当てられるかも知れません。

 ――なぜでしょうね、ぼくもいま、あなたと同じことを云おうとしている気がします。

――じゃあ、せえので云いましょうか。

――ええ、……せえの。

 いいひとでした。

 神山巽のことを語るとき、彼を知るひとびとはそう表現する。稀代の喜劇役者、胡乱な天才、孤独なパフォーマー、ひとり芝居を終わらせた男――役者としての彼を語る言葉は数多あれど、神山巽と云う人間を語るのは甚だ単純で容易く、ひと言で良い。

彼は、いいひと、だった。

いつもニコニコと笑顔を浮かべ、決して怒らず、よく見聞きしわかり、そして忘れず――逞しくこそなかったが、『雨ニモマケズ』を彷彿とさせるような、いいひと。いつも友人に囲まれ、誰かが風邪と知れば甲斐甲斐しく世話をしにいき、落ち込んで泣いているひとがいれば寄り添ってやり。心配になるくらいのお人好しだと云われても、ただ笑うばかりで、周囲の人間はやがて彼から受けた恩を好意として返していく。

自然、彼の周囲には笑顔が増えていった。

 夜も更け、参列者はひとりまたひとりと帰っていき、故人とごくごく近しい人間だけが残る。手分けして宴の始末をしながらも、思い出語りはまだ終わらない。

 ――こう云う飲み会だと、あいつは決まって端の席に座るんだよな。

 ――にこにこしながら、ジンジャーエールを飲むんだ。

 ――でも、ぼけを投げれば突っ込んで、話を振ればすかさずぼけてくる。

 ――誰より話を聞いていたんだ。

 ――こんなに、あいつのことしか話されない飲み会なんて、なかった。

 ――神山は嫌がるかな。

 ――葬儀は笑ってくれって云ったんだ。盛り上がってくれって。まあ、照れ隠しに怒る真似くらいはするかもな。

 ――怒ったことなんてないのにな。

 ――そう云うと、おれだって怒ることはあるさって怒るふりをするんだ。

 ――髪掻き上げて、怒髪天を衝く、なんてやって。

 ――はは、懐かしいね。

 ――はは。

 ひとしきり笑ったあと、先ほどまでの騒がしさが嘘のようにがらんとした部屋で、彼らはようやく、少しだけ涙する。遺影に写った故人の、満面の笑みが、そのときばかりは悲しい。しかしそれでも彼らは涙を拭い、片づけを再開した。みっともないところを見せたな、と、互いに笑いながら。

 

 これは、あとになってひとから聞いた通夜の様子を再構成しただけの、わたしの想像に過ぎない。わたしが彼の人生を追いはじめた時点で、全ては終わっていた。だからわたしには、こうして想像を巡らせて、語ることしかできない。

 けれどそれこそ、故人が求めたものだった。

 故人の名は、神山巽。本名、戌井直紀。職業、舞台俳優。享年、三十四。あまりにも早く逝ってしまった天才は、あたう限りの笑顔で見送られた。

 

 

     2

 

     「人生には幾つもの分岐点があって、そのポイントをひとは知らず知らずのうちに見逃したり、切り替えたりする。はじめの分岐点はどこにあったんでしょうね。あるいは、生まれたその瞬間か。でも少なくとも、演劇との出会いは、ぼくにとって大切な分岐点でした」

 

 神山巽が舞台を志したのは中学一年生のときだったと云われている。具体的には、彼が中学校に入学した春、国語の授業を受けていたときのことだ。彼は教師に指名され、太宰治『走れメロス』の一節を音読した。入学したばかりと云うこともあって、緊張し、力を入れすぎた彼は、やたらに感情を込めて台詞を読んだのだと云う。教師も含めてみんな呆気に取られるのを見て恥ずかしくなり、慌てて着席したところで、隣の席の女子生徒に話しかけられた。

 ――凄く良かったよ、いまの。音読としては、駄目駄目だけど。

 声をかけてきたのは、速水薫――華奢な体格の、別段目立つところのない少女だったが、話すときはいつも明瞭な声が室内に心地良く響いたので、神山もすぐに名前と顔を覚えた。何もかも小さい身体に対して大きな瞳が、意志の強さを感じさせた。

 ――こう云うの好きなの?

 恥ずかしさをごまかすために神山が無言で澄ましていると、速水はおもむろに彼の手を取って微笑みかけた。

 ――ねえ、演劇に興味、ない?

 あれで首を縦に振らない男子中学生の方がどうかしている、と呆れたように肩を竦めるまでが、神山がこのエピソードを語るときの一連の振る舞いだ。何度も繰り返してきたのであろうそれは、身体が自然に動いているようにも、細部まで計算されているかのようにも見える。

 このエピソードは、神山が舞台に立つようになったきっかけとして語られることが多い。事実、速水が神山を誘わなければ、彼がのちに辿った道のりも大きく変わっただろう。だが、速水からの勧誘が彼を演劇に招いたのだとしても、もともと彼は舞台に興味がなかったと考えるのは早計だ。彼は幾つかのインタビューとテレビ番組でこのエピソードを語っているが、あくまでも、自分が舞台俳優になったきっかけとして話しているに過ぎない。

 そもそも、このエピソードがどこまで事実なのか怪しいものだ。中学一年の春、一番最初に『走れメロス』を習う学校がどれだけあるだろう。中学生らしい異性への興味も、神山の人柄からは少しずれて見える。

 そして何より、いささか、できすぎている。

 速水薫は小学生の頃から子役として活動していた。中学生の頃には学業を優先していたが、その数年前までは、売れっ子とは云わずとも、テレビや舞台によく登場している。同世代の中では、最も舞台に近い環境にいたのは間違いない。そんな彼女からひょんなことをきっかけに見出され、演劇をはじめて、才能を開花させる。まるで約束されたかのような経緯だ。のちにふたりは、恋仲にまで発展していたと云う。まるで小説の主人公とヒロインだ。

 神山はもういない以上、詳細は速水に訊くしかないが、わたしはウェブ上で拾ったこのエピソードのことを疑っていた。それは職業病のようなものであったし、わたしなりの誠実さでもあった。

 ましてや、神山の評伝を書くのならば。

 

 神山の弟――戌井琢己から依頼があったのは、神山の葬儀から一週間後のことだった。そのメールをブエノスアイレスで受け取ったとき、わたしはまだ神山の訃報さえ把握していなかった。ウェブは世界に張り巡らされているが、地球の裏側はまだ遠かったらしい。

 神山とは一度だけ、実際に会い、言葉を交わしたことがあった。同世代にしてすでに活躍していた彼との短い邂逅は、いまでもジャーナリストとしてのわたしの奥深くに刻み込まれている。だから彼の訃報には少なからず衝撃を受けたし、その若すぎる死を悼みもした。だが、にもかかわらず――もとい、だからこそ、戌井琢己から届いたメールの、訃報に続く依頼には最初、釈然としなかった。

 ――烏丸様には、兄の、神山巽の評伝を書いていただきたいのです。

 ――それが、生前の兄の願いでした。

 わたしにとっては忘れ難い邂逅でも、神山にとってはどうだったかはわからない。少なくとも、わたしと同じくらい深い印象を抱いているわけではないはずだ。なのになぜ、当時もいまも一介の雑誌記者であるわたしに、自身の伝記を書かせようとするのか?

 誰かが神山の弟になりすまして虚偽の依頼を寄越したわけでもない。あの短い邂逅は、神山が云いふらしたのでもない限り、わたしと彼しか知らないはずだ。そして、神山があの話を触れ回る理由もなければ、神山はそのような人間でもない。直接交わした会話と、その後調べて出てきた幾つかのインタビューだけでも、彼が「いいひと」であることに疑いはなかった。

 わからなかった。彼の内心も、意図も。しかしそれゆえに、神山巽と云う人間を知ろうとするその仕事に、興味を惹かれもしたのだ。

 ひと晩明けて、わたしは承諾のメールを返した。奇しくもその日は、わたしと神山が出会ったあの夜から、ちょうど十年後だった。あるいはそこに、奇跡めいた符丁を見出したのかも知れない。

 幸いにして、ブエノスアイレスでの仕事は長くかからなかった。所得と職種になるべく幅を持たせた十人ほどのインタビューで構成される予定のその記事は、メールを受け取った時点ですでに取材を終え、簡単にだが翻訳を済ませている。ここから原稿としてかたちになるまでも長いのだが、少なくともそれらは日本でできる仕事だ。自分でも意外なほど手早く荷物をまとめると、すぐにアルゼンチンを出国した。

 素早い切り替えの理由は、神山の仕事に興味をそそられていたからと云うだけではない。「南米のパリのいま」と云う題目を、自分の取材が満足に体現できたとは思えなかったから――端的に云えば、前の仕事に満足できなかったから、早く忘れて次に向かいたかったのだ。

 もう少しわたしが血気盛んな、新進気鋭のジャーナリストであれば、満足のいくまでブエノスアイレスに留まり続けただろう。だが、大手の隙間を縫いながら浮遊する中小雑誌に海外取材費として割り振れる予算は多くはなく、この職業で食べていくことを決断しなければならないわたし程度のキャリアになれば、妥協もひとつの選択である。そもそも普段の仕事では、妥協することがほとんどだった。

 ――なんでそんなところで燻っているのさ。

 以前、仕事で会った大学時代の担当教授から、口惜しそうにそう云われた。

 英語、ドイツ語、フランス語、もちろん、スペイン語でも日常会話をこなし、中国語も少々、現在はロシア語も勉強中――客観的に見ても、語学の堪能さで云えば有望な人材であるはずだが、女だてらに勉学など、と云われた頃もいまは昔、グローバリゼーション著しいこの時代、これくらいの話者など、性別年齢問わず掃いて捨てるほどいる。何より、いくら流暢に外国語を話そうと、話す中身が伴っていなければ意味がない。それならいくらでもはったりを利かせれば良いものを、生憎とそう云う詐術には長けていなかった。

バックパッカーの経験と、旅のためだけに身につけた外国語を持て余すうちに大学を放り出され、気がつけば知り合いの伝手で現在の出版社に転がり込み、いつしか記者として身を置くようになっていた。もとより、ひとの話を聞くことは嫌いではない。なるべくしてなった職業だ、とも云えるだろう。なるしかなかった、とどう違うのかはわからない。

十年前のわたしは、そう云うわけで、確かに「燻って」いた。能力を活かした仕事に就いて、それなりの忙しさとそれなりの給料を得てそれなりの暮らしを送りつつ、心のどこかで、現状を納得できない。

そんなわたしの前に、神山は現れたのだ。

忘れもしない、夏の終わりのニューヨーク、小さな劇場の小さな舞台、そこで彼はひとりきりで観客を沸かせ、喝采を一身に受けていた。落語でも、漫談でもなく、両者の中間にあるようで両者とも決定的に異なる、ひとりでひとつの役を演じながらも複数人物が動き回る物語を演出する、手品のような芝居。一見すると何をやっているのかわからないくらい複雑な技術を、しかしこれ見よがしに示すこともなく、演じるのはあくまでも、誰も傷つかず、難しく考えることを求めない、純然たるコメディだった。

日本人の素晴らしいコメディアンがいると云う話をひとから聞いてふらりと立ち寄っただけのわたしは、舞台が終わる頃には、全くの興味本位で訪れたことが少し恥ずかしくなるくらい、心から感動していた。腹の底から笑ったのは、随分久しぶりな気がした。

ひと通り終えると、神山はうやうやしく一礼してさがっていく。そのとき、彼はわたしと目を合わせて微笑んだ。わたしが劇場を出ると、いったいいつの間に着替えたのか、舞台衣装からすっかり普段着に戻った神山が立っていて、またあの微笑みを――ひと懐こい猫のような微笑みを見せた。

――あなた、日本人でしょう。しかも、女性ひとりきりで見にきてくださった。このあたりでは珍しい。

――何かの縁だ、少し、ご一緒しませんか。

いま思えば、体の良いナンパと思われても仕方のないような、気障ったらしい誘い方だ。けれどわたしは素直に肯いて、彼の案内するままに手近なバーへ赴き、何杯か共にした。

初対面だったはずなのに、なぜか話は互いの職業や暮らしのことにまで及んだ。主にわたしが話していたはずだが、彼もぽつりぽつりと自分のことを語ってくれたのは、わたしへの気遣いだったのか、彼もひとり異国の地で、話し相手に飢えていたのか。大学時代の演劇仲間は次々と夢を諦め、舞台を去っていったこと、どうせひとりならばどこでも同じだろうと思い切って旅に出たこと、日本をひとしきり回ったら海外に目が向いたこと、いまでこそ客が入るようになったが、はじめは苦労しかなかったこと、それでも続けるうち、少しずつ評価を得ていったこと――。

アメリカンドリームですか、とわたしが少しふざけて云うと、

――小さな夢ですが、そうかも知れません、この国では、ドラマチックな成功譚はいつだって人気だ。

そう返してから、彼は苦笑いして云った。

――ただ、そうは云っても、人生は、物語じゃありませんから。

あれからもう十年経つ。わたしはジャーナリストとしてのおのれの人生を、ようやく受け容れつつある。

 では、神山巽にとって、自分の人生はなんだったのか。強いて云うならば、この仕事で、わたしはそれを知りたかった。

 

 神山巽の経歴はウェブや書籍に数多見つかるが、それらはほとんど全て、本人が運営しているホームページに記載されたものを引用している。学歴とキャリアを簡単にまとめただけのそれは、建築の骨組みだけのように簡素で、神山のあまり自分を語りたがらない性向以外、そこからうかがい知れることは特にない。

わたしがはじめに取りかかったのは、その骨組みへの肉づけだった。

帰国してすぐ、戌井琢己と打ち合わせをおこなった。日本はブエノスアイレスと正反対の四季を持つことを実感させる、涼やかな風が吹く初秋の午前、都内の喫茶店でおこなわれたその打ち合わせ兼取材は、まずは仕事の方向性と報酬について相談することが目的だったが、両者について戌井は最大限と云って良い寛大さを見せた。

――兄を不当に誹謗中傷するようなこと以外は、誠実に仕事をしていただけるのであれば、何を書いてもらっても構いません。つまり、根拠のある限り、烏丸さんが見て、聞いて、知った、神山巽と云う人間を、書いてください。

経費についても、

――こちらから出させてください。取材の許可や話を通すのも、協力させていただきます。兄の願いと云いましたが、それを叶えてやりたいと云うのは、ぼくの自己満足のようなものですから。

 このときの会話で、戌井が「ぼく」と云う一人称を使ったのは、この一度だけだった。よそゆきの笑顔から、その一瞬だけ、家族を亡くした弟の、悲しみと親愛との入り混じる表情が滲んだ。そこから遡って、兄としての神山巽、もとい、戌井直紀も感じ取れるように思えた。

 戌井琢己は、芸大を中退してから不安定な日々に身を投じた兄と対照的に、京都の医科大学を卒業し、若くして地元で小規模な診療所を開業している。神山が最期の日々を過ごしたのはこの診療所だった。戌井は、弟として、医者として、神山の治療にあたった。

 けれども、取材をその最期からはじめるわけにはいかない。仕事にも、会話にも、人生にも、順序と云うものがある。

 ――子供の頃の兄のことは、よくわからないんです。でもそれを云うなら、兄のことは、ずっとよくわからなかった。

 仕事の面での摺り合わせを終えると、まずわたしは神山の幼少期について訊ねた。勢い良く、熱心に返されるかと思ったが、戌井は慎重に言葉を選んでいる様子だった。

 ――よく云われるんですが、わたしと兄は、ほら、全然兄弟らしくないでしょう。子供のときもそれは変わらなくて、兄は毎日友達に誘われて遊びに出かけるけれど、わたしはずっと家で本を読んでいた。

――友達がいなかったわけではなかったし、遊びに行くこともあったんですが、昔を思い出すといつも、兄弟一緒に使っていた子供部屋で、わたしだけが机に向かってひとり遊びするなり本を読むなり宿題をするなりしていて、兄の帰りを待っている、そんな光景が浮かぶんですよ。

――そう云うとき、なぜか部屋は薄暗いんです。外から楽しそうな遊び声が小さく聞こえてきて……。

 ――寂しくはなかったですね。兄を羨ましいとも思わなかった。

――夕飯になれば兄は帰ってきて、ご飯を食べながら、きょうはこんな面白いことがあったと話してくれるんです。兄の手にかかれば、どんな些細なことでも愉快な事件になった。それを聞くのが楽しかった。

 ――夜は、ふたりで遊ぶこともありました。兄弟仲は普通だったと思います。意見がすれ違って、喧嘩することもありましたが、大抵は兄の方から折れた。もとより、喧嘩と云っても、わたしが一方的に怒るかたちでしたが。

 神山と戌井は五歳離れている。兄が中学に入ると、彼が演劇部に入ったこともあり、ふたりの生活サイクルはずれていった。

 ――中学生になったあたりから、兄はあまり、周囲のことを話さなくなりました。思春期の気恥ずかしさがあったのかも知れませんが、どちらかと云えば、ひとの言動を面白可笑しくしゃべり立てるものじゃないと云う、兄なりの成長と誠実さのあらわれだったのだと思います。

 ――中学は兄弟揃って、地元の公立でしたが、高校だと兄は速水さんと一緒に演劇で有名な国立に行きましたね。わたしは県外の私立に。学費もかかっただろうに快くわたしの進学を認めてくれた母には、感謝してもし切れません。

 ――ああ、ご存知ありませんでしたか。兄もわたしも、片親なんです。父はわたしが生まれてすぐに、病気で。

 ――兄は誰からも好かれましたが、母だけは、兄よりわたしのことを気にかけてくれたように思います。夫が遺してくれた命だったからでしょうか。勉強をせず、ずっと演劇に打ち込む兄よりも、優等生の弟の方が可愛かったのかも知れません。母は兄を、遠ざけているようでした。

――高校では兄は部活とバイトに明け暮れて、芸大に入ると、貯めたお金で家を出ました。以来、兄と母は疎遠でしたね。

 そう口にする戌井の表情がわずかに歪んだのを、わたしは見逃さなかった。母と自分、両方への複雑な感情が見て取れた。

 彼は神山の弟のはずなのに、兄よりも年上に見えた。医師の激務だけが理由ではないだろう。家族を支える責任感と苦労は、並のものではなかったはずだ。

 ――医者になったのは、別に、好きだからなったわけではないんです。なれるのだからなった、と云う程度のことで。兄が大学で自分の好きなことをできていると思うと、少し恨めしく思ったこともありましたが、たまに会って互いの近況を話すと、やっぱり兄の話を聞くのは楽しかった……。

 ――兄とは、だから、近いようで遠いんですよ。一番兄と近づけたのは、兄の治療をしているときだったかも知れない。正直云えば、突然わたしの診療所を訪ねてきたときは、嬉しかった。

 ――身体を検査して、もうボロボロなのがわかるまでのことですがね。

 戌井は悲しげに笑うと、遠くを見るように目を細めた。

 ――わたしはずっと、兄の帰りを待っていたんです。

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)