天井を小蠅が横切る。
外から入ってきたのか湧いたのか、という疑問がコンマ一秒で掻き消されるくらいには汚れている僕の部屋。本とか服とかゴミとか充電器とか扇風機とかで埋め尽くされているフローリングの床に文字通り僕が寝そべられるだけの隙間を作って、仰向けになってしばらく微睡んでいた。その辺に転がっているであろう携帯電話を――身体は動かさずに――手をばたばたさせて探し当て、起動して時刻を確認する。二十一時十七分。近所のスーパーが二十二時に閉まることを思い出し、散歩がてら買い物に行こうと決意。
のっそりと立ち上がると、固い床に寝転がっていたのが災いして背中や腰がぴきぴきと痛んだ。横目にベッドの上のひぃちゃんが見えたので、腰を庇うような滑稽な姿勢のままゴミ――とか服とか充電器とか扇風機とか――を掻き分けてベッドに近づく。
ひぃちゃんは御伽噺のお姫様のクローゼットに入っていそうな服ばかり着る女の子で、やはり今も淡いピンクのそんなようなワンピースを身に纏い、横になっている。襟の刺繍と赤いリボンが印象的だ。この町を日中その恰好で歩くには、多少人々からの好奇の視線を覚悟しなければならないが、彼女の住んでいた東京では、ある程度景色に溶け込んでいたのだろうとも思う。実際ひぃちゃんの洋服はどれもよく似合っていた。強く握ったら折れてしまいそうな華奢な手足は白く、綺麗で、なめらかだった。いつも少しだけ俯いた表情は、長い睫毛にぷっくりした頬を薄桃色に染め、瑞々しい唇を隠すように口をつぐみ、それらをふんわりと深い黒の髪が包み込んで、まるで森の奥の秘密の宝箱を開けてしまったような、そんな魅力があった。ひぃちゃんは大抵背を丸め、手を前に組んで、何かに怯えるように縮こまっていた。その癖に傲慢で利己的で悪戯好きで、自分の欲望に素直な子だった。容姿が病弱でか細くて儚いお姫様に見えるのは、魔女に呪いをかけられたからだと、僕は思っていた。
ひぃちゃんは僕より幾つか年上だったがお互いにそれを気にすることもなく、僕らはいつも対等に接していた(それはそれとして僕はひぃちゃんによく怒られていたけれど)。ひぃちゃんは僕の愚直な精神が好きだった(らしい)し僕はひぃちゃんの小悪魔っぽい振る舞いとりんご飴のような艶やかなショートヘアが好きだった。ただひぃちゃんの言葉は過激で、気に食わない人間をゴミと言い切ったり呪いのように具体的な侮辱(彼女はときにそれを辛辣なアドバイスだと称したが)を浴びせたり、癖のあるハスキーな声で悩める少年少女を唆したりしていた。僕はそれを止めたり止めなかったり小言を言ったり言わなかったりして、呆れつつも結局、彼女のあまりの自由さに惹かれていた。
僕のベッドの上、静かに眠るひぃちゃんの髪の毛を人差し指で弄び、額にキスをして、僕は家を出た。
***
「神様に愛されていない人は死んだ方が良いんだよ」
そんなことを彼女が言い出したのも、ちょうどこんな秋の夜道だったと思う。いや、正確には八月の終わり、鈴虫の鳴き声に「夏ももう終わりだね」と僕がしみじみと言うと、ひぃちゃんは少しむきになったように「夏はもう終わってるの」と返した。彼女は俳句を詠む人だった。
「それって季語的なこと? でも僕の認識なら八月はまだ夏かなあ。十分暑いし」
「はあ……貴方さ、秋の音や匂いが分からないの? ぼけっと生きてるのね」
むっとさせる言い方だが、僕は某テレビ番組のキャラクターを連想して、少し笑ってしまった。するとひぃちゃんは泣き腫らしたような目――そういうメイクなのだが――でギロッと僕を睨みつけ、その口からまた何か飛び出しそうだったので、
「いやさ、それも分かるんだけど、僕の誕生日、明後日じゃない。で、僕は夏生まれだ、って小さい頃から刷り込まれてるから、やっぱり僕の中では八月は夏なんだよ」
と、僕はなるべく穏やかに、そしてにこやかに答えた。
「ふうん」とひぃちゃんはつまらなさそうに言って、「風は、ずっと澄んでるよ」とだけ、小さく呟いた。ひぃちゃんの横髪がひらひらと揺れて、微かにシャンプーの匂いが漂った。
今はその時より、少し寒い。
アスファルトを鳴らす足音がやけに響く。夜とはいえ今日は不自然なくらい静かで、道中寺の大きな木がわさわさと揺れた以外、何者も僕の足音を掻き消してはくれなかった。辺りの民家もところどころ明かりは点いているのに生活の音がみじんも感じられず、僕は何だか世界から突き放されてしまったように感じた。自動販売機の明かりが見え、スーパーへは遠回りになってしまうが近づいてみた。ブゥゥゥンという無機質な、ある種不気味な音を確かに聞き取り、少し安心して、馬鹿みたいだなと思った。また歩き出すとやはり乾いた足音だけが響くのだが、試しに「馬鹿みたいだ」と呟くと、一瞬その声が静寂を支配して、僕は幼い頃公園で新しい遊びを発明した時の気持ちを思い出した。
スーパーが見え、ようやく町らしさを感じ始めた頃、電柱の隅にじっとうずくまる猫に目が行った。どこかで餌をもらっているのか、野良のわりに少し肥えた三毛猫。街灯の薄明かりの下でも愛らしいまんまるとした瞳がはっきりと分かり、僕は静かにしゃがみ込んでそおっと猫の背中に触れてみる。にゃあ、とふぬけた鳴き声を出して前足で首を掻くが、特に嫌がっている様子はなかった。人に慣れているらしい。毛触りもふわふわとして、可愛らしい。まるで、そう、
――神様に愛されたような
そのフレーズが浮かんだ途端、心臓をきゅっと掴まれたような気がして僕はすぐに立ち上がった。猫は無垢な瞳を僕に向けた。
あの時も、他意は無かった。確か人気のアイドルの話になって、その容姿について僕が冗談めかして言ったのだ。何かの小説で見かけたフレーズが気に入ってよく使っていた、ただそれだけだった。ひぃちゃんが「神様ねえ……」と溜息交じりに言うので、僕は大袈裟な表現だと呆れられたのかと「ええっ?」と笑いながら聞き返した。
「神様に愛されなかった人は、どうしたら良いんだろうね」
ひぃちゃんの家に向かう坂道の途中だった。もさもさした街路樹が立ち並び、街灯が投げやりに辺りを照らす中で、ひぃちゃんのワンピースの襟のリボンは睨み返すように光を反射させていた。
僕はしまったと思い、何か気の利いた返しはないかと頭を締め付けてみたが、絞り出せたのはぎこちない笑みだけだった。
「たとえば、親に虐待されて育った人、重い障害を持って生まれた人、どうしようもなく醜い容姿の人。生きることのスタートラインが普通の人よりずっと後ろにある人たち。そういう人たちって、どう生きていけば良いと思う?」
あくまで淡々と、歩みを止めずに彼女は言った。
「……そりゃ確かに、何かしらのハンディを抱えてる人は少なからずいると思うけどさ、それだけで不幸になるって決まってるわけじゃないし、実際に幸せな人も、人一倍頑張ってる人もいるし、何より神様に愛されたとか愛されてないとかは僕らが決めていいことじゃない……と思う」
「ふうん」
ひぃちゃんはつまらなさそうに応えた。
「いや最初に言ったのは僕だけどあれは冗談の類で――」
いつだったか、やはり夜の寂しい時間にこの坂を歩いていて、「アニメのバトルシーンで出てきそうだよね、この坂。第四話ぐらい」と言ってひぃちゃんを笑わせたことを思い出した。正義のヒーローなら、ひぃちゃんを救えただろうか。
「じゃあさ、頑張れない人はどうしたら良いの? 普通の人が頑張らなくても良いところを、頑張らなければ生きていけないのに、頑張れない人はどうしたら良いの? 神様に、愛されてない人は、さ」
それは――そんなものは、詭弁だ。生きるために何を頑張っているかなんて、人のを可視化できるはずもなければ相対化できるものでもない。だから頑張れない人、なんてものは定義できないし、実際に生きている人たちに失礼な話だ。
――とは、言えなかった。そんな、ただの正論を言えるわけがなかった。他のあらゆる人間には反論できたとしても、僕はひぃちゃんにだけは言ってはいけなかった。
ぺたぺたという足音が世界に絡みつくように響いて、ひぃちゃんは飴玉の包み紙を捨てるみたいに呪いの言葉を宙に放った。
「私が殺した男の子も、神様に愛されてなかった。神様に愛されてない人は死んだ方が良いんだよ」
ひぃちゃんは軽く俯いたまま身体に這わせるように左手を持ち上げて、右肩をさすった。
「……」
僕が目を泳がせると、ひぃちゃんは卑屈に、そして僕に聞こえるように笑った。
「だあってさ。死んだらまた、生まれ変われるかもしれない。生まれ変わったら普通に生きれるかもしれない。だから、死んだ方が――」
い、い、ん、だ、よっ――と、ひぃちゃんは跳ねるようにして坂を駆け上がった。そのまま夜空に消えてしまうような気がして、僕は自分の鼓動に急かされ、すぐに追いついて彼女を後ろから抱きしめた。ひぃちゃんは頭をコトン、と僕の頭にもたれかけて「君はほんとに単純だよね」と言った。
「まあ、嫌いじゃないけどね」
「……男の子を殺したお姫様は、幸せになれた?」
「いいえ。きっと呪われているよ」
(続きは『蒼鴉城第45号』で)