うたかたの痕

入ヶ岳愁

 矢車早稀は短命な歌手だった。

そう言うと、まるで彼女が若くして命を落としたロックスターの一人であるかのように思われてしまうかもしれないが、そういうことではない。彼女は現在もごく健康な一高校生として存命である。矢車早稀――サキが短命に終わったというのは、その音楽生命に限っての話だ。

現役高校生シンガーソングライターとしてデビューしたサキは、そのわずか九日後に自身の活動休止を発表した。さらにその四日後、活動休止が無期限であり、実質引退に等しいことがその理由と共に本人のSNSアカウントから告げられたことで、ネット上では彼女のことがちょっとした話題となる。そこで飛び交った邪推やオカルティックな陰謀論をここで述べようとは思わない。ただ厳然たる事実として、サキはデビュー直後に音楽の世界から突如として姿を消したことになる。

 サキにまつわるあの一件の後、僕は図書館の資料や信用できそうなウェブサイトの統計情報などを検討することで、自分なりに音楽業界の有り様を少しでも理解しようとした。

ある音楽協会の出した公式データによると、平成二十九年の日本国内においては、その一年だけで実に三百二十人ものミュージシャンがメジャーデビューを果たしているとのことだった。この数字に、活動休止の後再デビューした歌手は含まれていない。一月につき約二十六人というペースだ。歌手の世界が、それだけ早いペースで次々と入れ替わっているということが判る。――そう、増えるだけではない、入れ替わっているのだ。デビューした新人全員が曲をヒットさせて歌手として成功するという可能性は、感覚的にも統計的にも考えられない。

幾人かの新人歌手を例にとってデビュー後数年間の活動内容や楽曲の売上を調べてみると、彼らの生きる世界を片鱗ながら垣間見ることができる。あるバンドは年に四曲という速いペースで新曲を出すも、どれもヒット曲にならず結果先細り、またある女性ボーカルグループは、デビュー曲がスマッシュヒットを記録した結果、その一曲の力だけで瞬く間に他を呑み込むほどの勢いで成長していった。このような興亡の歴史が、毎年三百以上同時並行的に消化されていく。当の新人にとっては過酷と呼ぶより他ない環境だろう。

しかし、サキは天才だった。デビュー前からサキは音楽情報誌等のメディアから一際注目と期待を集めていたし、僕も彼女ならこの世界を誰よりも高く羽ばたいていけるものと信じて疑わなかった。その美しい透きとおった声で、研ぎ澄まされた歌唱力で、そして幼馴染の僕が言うのもなんだが、その整った顔立ちによって。しかし今や彼女は、三百二十分の一の泡沫として、水面に上がる間もなく消えようとしている。その一瞬の煌めきを、何人がその目に焼き付けられただろうか。

きっと一年も経てば、歌手としての矢車早稀を覚えている人間は数えるほどしか残っていないだろう。それが、一通り資料を検討した後に僕が出した結論だった。

 

 

    一

 

 サキの活動休止に関する第一報を、事務所側が発表したのが日曜日の夜のこと。僕はサキの事務所の公式アカウントをフォローしていたので、週明けの登校を待つまでもなくその事実を知ることができた。

月曜日の朝、僕が教室へ入った途端に露骨なまでにクラスメイトたちの声のボリュームが下がったものだから、もうサキについて噂が回っているのだと僕はすぐに気付くことができた。これは後になって三年の先輩から聞いたことだが、この時点で既に他学年の生徒までサキのことを話題にし始めていたそうだ。サキが歌手デビューする時は学校中で持て囃されたのだから、その活動休止が学年を問わず噂になるのも十分予想できることだった。

僕が自分の椅子を引いて席に着くまでの間、普段なら挨拶の一つでもしてくるだろうクラスメイトたちは、一人として僕と目を合わせようとすらしなかった。

腫れ物に触るような、という表現を身に染みて感じた。サキと僕が幼馴染なのは皆知っていることで、それだけに今僕は噂話をされる側で、だから彼らの仲間に加わることはできないのだ。

そんな風に友人たちから遠巻きにされる扱いを受けて――僕はもう少し疎外感とか、寂しさなんてものを感じるべきだったのかもしれない。実際には、僕はそれを仕方が無いことなのだと割り切ることができていた。

腫れ物が大人しくしているのを確認できたからだろうか、クラスメイトたちが徐々にサキの話題に戻っていくのが分かった。

教室の奥で数人が固まって話している。驚きに息を呑む誰かの声が聞こえる。黙って知らぬふりをしていた生徒も、後ろから肩を叩かれるとすぐに振り向いて噂話に交ざっていった。

誰かが聞いたことには、サキは自分の歌に自信を失くしてしまったのだとか。また違う誰かの言うには、彼女は何かしでかして警察に補導され、慌てた事務所が縁を切ったのだとか。いや、どうも補導ではなく事務所の人間とのスキャンダルらしいとか。出処一切不明の憶測たちは、人に伝わるたびにその尾ひれの付け方を変えていった。

そこかしこからサキの名前が抑えられたボリュームで飛んでくる。そこにはたまに僕の名前まで混じっている。

探りを入れられるのも、ただ噂を耳にするのも嫌だった僕は、意識を彼らから遠ざけることにした。具体的に言うと、机に突っ伏して眠り込んだ。昨日寝不足だったのでちょうど良い。

僕にとって恐ろしかったのは、サキが悪しざまに言われていることでも、僕とサキの関係が邪推されていることでもない。サキの存在が、早くも使い捨てのゴシップとして消費され始めている、その事実が怖かった。顔を伏せたまま、心中の焦りが息遣いにさえ表れないようにと気を張る。

歌手としての矢車早稀という舞台に完全に幕が下りてしまうのも、このままでは時間の問題ではないか。一週間後、全く別の話題に盛り上がる教室の光景が頭に浮かんで、僕は人知れず背筋を寒くする。

机の上に頬をくっつけると、いつもよりも冷たい。そんなことで冬の訪れを実感しながら、僕は少しずつ意識を薄れさせていった。

 

サキは朝礼までに姿を見せなかった。というより、その日サキは学校に来なかった。仏頂面の担任教師は、職員会議で対応が決められていたのか「矢車は風邪で休みだ」の一点張りで朝礼と終礼での質問攻めをやり過ごしていた。

僕も僕で、休み時間になるたび自分の席で居眠りや狸寝入りを決め込んでいた。生徒たちはその間にもクラス間を渡り歩いてサキの噂をせっせと広めていったが、僕にそれを止めることは残念ながら不可能だ。

終礼が終わると同時に、僕は黙って鞄の肩紐を掴むと教室を飛び出した。迷いなく、これまで幾度となく通ってきた歌唱部の部室へと向かう。

僕とサキの所属する歌唱部は毎週火・水・金曜日が活動日だが、活動日でなくても部室は開放されていて、自主練や雑談の場としていつも賑わっている。僕もよく自主練をしにいく部員の一人だが、今日は違う意味でも一度顔を出しておくべきだろうと思った。

妙なことに、歌唱部の部室前にはちょっとした人だかりができていた。数人の生徒が廊下に立ち、うち二人ほどは入り口から部室の中を覗き込んでいる。初めは何の野次馬かと思ったけれど、近付いてみると何ということはない、彼らは皆見知った顔の歌唱部員たちだった。

「これ、どうしたの」

 とりあえず手近な場所に立っていた二年の男子部員に話しかけてみると、彼は怪訝な顔を浮かべた。

「どうしたもこうしたも、お前矢車のこと聞いてないのかよ」

「聞いてるよ。でもそれとこの状況にどんな関係があるのさ」

「それは――」

「駄目。やっぱり私には理解できないわ、全然!」

 男子部員が言いかけたのに被さるように、部室の中から大きな声が飛んできた。

「ご覧の通りだ。見てみろよ」

 促されるまでもなく、僕は部室の中を覗き込んでいた。

 そこでは、三年の女子部員が二人、対峙するようにして向き合っていた。長い髪を頭の後ろでまとめているのが部長の伊勢田さんで、ボブカットに眼鏡をかけているのが副部長の江崎さん。今さっき大声を上げたのは伊勢田さんの方らしく、今は江崎さんが彼女を宥めようとしているところだった

「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃない。私たちには待つことしかできない」

「いいえ。早稀さんが学校に来ないというのなら、こちらから迎えに行けばいいだけよ。腕を引っ張ってでも連れてくるべきだわ」

 僕は無言で目を瞑った。案の定と言うべきだろう。二人の話題はサキの活動休止についてだ。

「落ち着いてよ。早稀ちゃんは風邪でお休みなんだから」

「それが怪しいのよ。活動休止したのは分かった。本当に風邪を引いたんだとして、体調不良で来られないのもどうしようもないわ。でも、それなら歌唱部に一度連絡くらい入れるべきじゃないの? 電話でもメールでも……それがないってことは、つまり仮病なのよ」

「だから、それは考えが極端だってさっきから言ってるでしょ?」

 過熱する議論から目を逸らして、僕は一度後ろを振り返った。廊下に立ち尽くす部員たちは、ある人は戸惑って怯えた様子で、またある人は気まずそうにしながら部室から響く声を聞いている。

 状況は十分に飲み込めた。彼らはいつも通り自主練や雑談をしにここへやってきたが、部長と副部長が舌戦を始めたばかりに居たたまれなくなって出てきたのだ。部室内の机にいくつも鞄が置いたままになっているあたり、帰るために荷物を取るタイミングすら逸してしまったらしい。

 江崎さんはその状況を心配しているようで、先程からちらちらと廊下へ視線を送っていた。

「ほら……みんな私たちが言い合ってるせいで外に出ちゃってるじゃない。とりあえず場所移すなりしようよ」

「何言ってるの、これは歌唱部全体の問題なんだから――あら? 金沢くんじゃない」

「あ……どうも」

 話の運びで伊勢田さんが入り口を振り向いたので、ちょうど僕と目が合ってしまう。迂闊だった。

「ちょうどよかった、話を聞こうと思っていたところだったの。早稀さんの活動休止について、金沢くんは何か聞いてない?」

 伊勢田さんが僕に向けたのは期待の眼差しだった。部活以外の場でサキと繋がりのある僕からならば、新鮮で確かな情報が手に入ると思ったのだろう。生憎だが、それには応えられない。

教室では机に突っ伏すことで避け続けていた問いに、僕はついに答えることとなった。

「聞いてないです、まだ何も。僕自身昨日の夜の告知で知ったばかりで」

 わざわざ「まだ」と言い足すのは自分でも空しい。実際のところ、サキの活動休止宣言は僕にとって寝耳に水だった。最近は以前ほど親密でないとはいえ、サキとは仲良くしてきたと自負していた僕だが、この事態に際してサキから一度の連絡も貰っていない。そういう意味では伊勢田さんと状況は似ている。

活動休止を知った瞬間から今まで、何度こちらから電話をして話を聞こうと思ったことか。でも、サキが何も話さないうちに僕の方から訊くわけにはいかないと、携帯に手を伸ばしかける自分をその都度抑えてきた。

僕の言葉を聞いた伊勢田さんの表情には、失望と同情の色が見えた。

「そう。なら仕方ないわね。こうなるといよいよ、早稀さんの休止理由が分からなくなってきたけれど。本当、一度くらい連絡してくれてもいいのに」

伊勢田さんはそこで一瞬言葉を詰まらせた。彼女が俯くと同時に、その両手がお腹の前できつく握り締められる。

「私はただ理由が知りたいの。そうでないと、この件をどう飲み込めばいいのか分からないもの。教室じゃ変な噂ばっかり聞こえてくるし、もう気が気じゃないわ。どうして急に活動休止なんて……CDが出た直後の今が一番大事な時期なのは、早稀さんが誰よりもよく分かっているはずなのに! 他のみんなはどう? 歌手を目指していた仲間として、早稀さんが突然こんなことになって、それで納得できるの?」

 伊勢田さんの言葉は、廊下の奥に立つ部員にまでしっかりと届いたことだろう。だが、僕を含め誰も答えを返さなかった。伊勢田さんの前に立つ江崎さんも、唇を噛んで黙り込んでいる。

 納得してなんかいないのだ。部員誰一人として。少なくともその気持ちは共通していた。

伊勢田さんは、これまで決してサキを敵視していたわけではなかった。それどころか彼女は、サキが部一番の実力者であると公然と口にしていた。サキのようになれ、サキのレベルまで追いつけというのが、部員を叱咤する伊勢田さんの決まり文句なのだ。

合唱部と軽音部の一部部員が合流する形で十二年前に結成されたこの歌唱部は、その規模と歴史の浅さにしては実績を上げ続けてきた。卒業後に歌手デビューした部員が五人。在籍中に現役高校生歌手となったのがサキで二人目。評判を聞きつけてか近年は入部希望者が増え、今年からはついに入部人数制限が設けられた。つまり今、歌唱部は歌手になるために本気で研鑽を積む人間の集まる場になっている。そこにおいて、シンガーソングライターとしてデビューするサキの存在は大きな柱となっていた。

そんなサキがデビュー早々歌手生命の危機に瀕している。部全体に動揺が広がるのもやむを得ないことだった。

部室に降りた重い沈黙は、伊勢田さん自身によって破られた。

「――もう、やっぱり直接訊いた方が早いわよね。早稀さんには説明責任があるもの」

「いや、だから今はそっとしておこうって」

 反対する江崎さんを伊勢田さんは黙殺して、ただ僕の方へ向き直った。

「ねえ、金沢くん」

「……何でしょう」

 僕はそう返したが、次に言われることは大体想像がついていた。

 伊勢田さんが、わざとらしく笑みを作る。

「早稀さんが今日休んだのは、体調不良が原因なんでしょ? だったら、幼馴染がお見舞いに行くのはとても普通のことじゃないかしら?」

 

(続きは『蒼鴉城第45号』で)