憑家

 

 水無月の五日暮六つ、黄昏時が迫る空を染め上げるのは深い藍色。遠く西の方角を見れば山の端から小さく覗く日輪の一欠け。日が落ちる間際、血がにじんだようにぼんやりと広がる薄黒い茜色。本所竪川に立ち並ぶ拝領屋敷の一軒の前に一人の虚無僧が佇んでいる。

 深く暗い墨染の僧衣に、顔を覆う深編笠。深編笠の隙間から口元に差し込む一本の尺八、しかし吹こうとする様子はない。笠の隙間から覗く顔は闇に塗りつぶされたまま。その眼に宿した不気味な光は闇の中で一層際立つ。

 竪川の方角から姿を現したのは、番方の勤めを終えた屋敷の主人、木幡(こばた)牧生(まきお)。不気味な虚無僧の姿に思わずひるんで足を止めたものの、努めて威厳を取り繕い、数えで二十七の若さに似合わぬしかめ面で虚無僧に尋ねる。「そなたは何者だ。何用があって、我が屋敷に立つ」

 虚無僧は木幡の問いに答えず、ケタケタと甲高い笑い声を上げると、尺八を深編笠から抜く。右手で尺八のもとを握り、すうっと引くと、現れたるは鋭く輝く一筋の小太刀。上段に構えた虚無僧は奇声とともに地を蹴り木幡に襲い掛かる。

 驚いたのは木幡牧生、悲鳴を上げて身をひるがえしその場から逃げようとはかったものの、足がもつれて倒れこむ。虚無僧、木幡にのしかかり構えた小太刀を逆手に持ち替え、首にめがけて振り下ろす。

 命だけは守らんと木幡は必死に身をよじる。虚無僧の小太刀は狙いがそれたか、木幡の腕に切り傷を入れ、深く地面に突き刺さる。深くえぐれた腕の肉からどくどくと流れ出す赤黒い血。虚無僧、小太刀を地面から抜き、今度こそ確実に仕留めんと心臓に狙いを定め直し、腕を振り下ろそうとする。

「何事ですっ」と鋭い声を上げるは、屋敷の中から飛び出した、牧生の女房、木幡せつ。顔は青ざめてはいるものの、夫に仇為す怪僧を気丈ににらみつけている。

 慌てたのは件の虚無僧、木幡の体から急いで飛び退き、小太刀を持ったまま逃げていく。九死に一生、安堵のためか、木幡はそのままぐったり気絶。せつは下女を医者に向かわせ、飛び出してきた隣家の者に虚無僧の後を追うよう頼んだ。

 駆け付けた医者の見立てによれば、腕の傷は深いものの、骨には当たらず肉を切ったのみ、命に大した別状は無し。傷口に薬を塗り付けた後、針と糸で縫い合わせれば、三十手前の若さもあってか、三日後からは大事なく番方詰め所に出仕を始めた。

虚無僧は結局捕まらず、何処へともなく姿を消した。

 これが全ての事の起こり。