ブダペスト四重奏団は、祖国ハンガリーの作曲家バルトークの追悼のため、ニューヨークでコンサートをおこないました。
最後の楽章が長すぎたため、ひとりが演奏に迷い、ほかの者も適当に合わせ、その結果二度とやれないひどいものとなりました。しかし、それが終わった時、文句の代わりにあったのは、「ブラボー」の叫びと惜しみない拍手でした。
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その日、クロバ町の午後の空は美しく晴れていました。
「うーん、いい天気だね!」
表の大きなガラス戸を開け放ち、誰に言うでもなく、ウメコはそうつぶやきました。彼女はここ、カフェ〝蜜蜂(メリッサ)〟のウェイトレスです。
ウメコの声に気づいたのは、カウンターに肘をついて塾の宿題をしていた常連客のミツオくんだけでした。
「いい天気、か」明るい日差しを背に受けているウメコを眩しそうに眺めながらミツオくんは言いました。「ああ、空はこんなに青いのに、風はこんなにあたたかいのに、太陽はとってもあかるいのに……」
そう言うとミツオくんは物憂げに溜息をつきました。
ミツオくんはまだ小学五年生ですが、コーヒーをブラックで飲みますし、一人前に傷心だってします。
ウメコは首をかしげ、カウンターの奥にいる、このちょっと古風なカフェの女主人であるタバタさんに小声で尋ねました。
「タバタさん。ミツオくん、どうしたんですか?」
「ませガキのことなんて、わたしにゃ解らないよ」
「ませガキ、って……タバタさんのお孫さんじゃありませんか」
「ふん。わたしゃ子供が大の苦手なんだ。孫だからって何だい」
「いいお孫さんだとわたしは思いますけどねえ」
「大体なんだってこのお店にいつも来るのかね」
「それは」ウメコは言いました。「おばあちゃんのことが好きだからですよ」
「いいや」タバタさんはきっぱり言いました。「あんた目当てに決まってる」
「えっ」ウメコは驚きました。「そうなんですか? 知らなかった」
「ああ」タバタさんは頷きます。「なんなら、ミツオに訊いてみな」
二人の会話が丸聞こえだったのでミツオくんは顔が真っ赤です。
ウメコはウメコで寝耳に水のことなので慌てふためいています。
「帰る!」
ミツオくんはコーヒー代を乱暴において、ランドセルを引っ掴むと小走りのまま店を出ました。
店に吹き込む風の中に、金木犀の香りがしました。