バベットはフィリッパをじっと見つめた。不思議なまなざしだった。多くのことを語っていた。同情をしてくれるものにたいする憐れみ、その底には軽蔑とみなされかねないものすらあった。
「みなさんのため、ですって」とバベットはいった。「ちがいます。私のためだったのです」
――イサク・ディーネセン『バベットの晩餐会』(桝田啓介訳)
◇
全開にしたベランダから真昼の日の光が射しこんで、まだ水気の残るフローリングの床を照らしていた。おだやかな秋風が脇のカーテンを揺らしながら通りぬけて、光の道のなかで微細な生きもののように舞っている埃たちをかく拌する。風は、かすかに金木犀が香った。
フローリングの木目をちゃんと見たのは何日ぶりだろうか。掛井緑子は指折り数え始めたが、二十日を越したところでばかばかしくなって途中で止めた。ともかく、部屋が綺麗になったのは心地がいい。
片面が灰色によごれた雑巾を百均の赤いバケツに突っこんで、掛井は整頓された部屋を見回した。日も出ないうちから掃除を始めたとはいえ、よくもまあここまで片付いたものだ。通販サイトの名が印字された大量の段ボールは畳まれてビニール紐でくくられ、壁際に立てかけられている。階下のゴミ置き場に置き切れなかったゴミ袋が点在しているのはご愛敬だ。透けて見える中身にコンビニ弁当や出前で取ったものの残骸が多いのが、自分のことながら痛々しい。埃と抜け毛と読みさしの本で埋まっていた床は、いまや雑巾がけまで済んでつやつやしている。大の字になって寝転べるほどではないが、足の踏み場を探さなければいけなかった昨日までとは大違いだ。
ふいに、廊下の奥から聞こえていたシャワーの水音が、カランをひねる音と同時に止まった。湯気とともに香取灯が顔を出し、やりとげた顔で言う。
「だいたい終わったよ。拭き上げまで済ませるから、もうちょい待ってて」
「ご苦労さま」
「お風呂で赤カビの繁殖実験でもしてたの?」
「やかまし。とっとと作業に戻りなさい」
「へいへい」
香取が頭を引っこめ、続いて浴室のドアを締める音がした。最後の仕上げにかかり始めたらしい。今の今まで手を動かし続けていても、さして疲れた様子もない友人のタフさには感心するばかりだ。
近場のゴミ袋を足先でどけると、掛井は床にごろりと寝転んだ。壁の時計は正午過ぎを指している。気がつけば、ゆうに六時間は作業していたのだ。私はあいつと違って体力のある方ではない。最近は特に。
年末の大掃除でもここまでくたびれることは無かったろう。子供のころの、家族総出で大騒ぎしながら家じゅうにはたきをかけた記憶をふり返りながら、掛井はまぶたが落ちていくに任せ、しばしの眠りに落ちた。
香取とは十年来の腐れ縁だが、連絡を取ったのは久しぶりだった。
最後に対面したのは大学卒業後のことだ。掛井は青息吐息の新卒一年目、香取といえば大学時代から相変わらずのアルバイター生活をしていた。馴染みの店に朝まで居ても平気じゃない身分になったことを、お互いに嘆き合った。
「なにかあったらいつでも言ってよ」終電間際に駆けこんだ駅の構内で、香取は手をひらひらと振った。「飲みの誘いでも構わないし、困ったことでも相談に乗るからさ」
最近は何でも屋みたいなバイトも始めてさ――と香取はその酒席でこぼしていたのだった。
とにかく色々なアルバイトに就いてみる、というのはこの友人の奇特な点の一つだ。映画館のもぎり、ホテルの雑用係、ウェイター、警備員、古本屋の買い付け。黒服を着てなんらかの談合を行う会議室の前に立つ怪しげなバイトや、大学研究室の医学部実習用の死体を取り扱う仕事など、その活躍の幅広さに掛井はしばしば驚きあきれた。特殊清掃も経験済みだという。
事務所の所長がものごっつい女傑のばあ様でさ、おっかないんだ。へえ。ミス・マープルとルシール・ベルヌイユを六対四で混ぜたみたいな性格で。おっかなすぎるでしょ、そのおばあ様。でも掛け持ってる仕事の中ではいちばん面白いんだ、やりがいがあってさ。ふうん、うらやましい。転職する? そんなわけない。
「あんたに掛け合うぐらいの困りごとって、よっぽどな大事って気がする。わかんないけどさ」掛井はいっと歯を見せ、ふざけて苦しむようなそぶりをしてみせた。「そんなことにならないよう、せいぜい努力する」
「そうだね。それがいい」
「それに、これからもっと忙しくなるだろうから。かかるとしたらお医者様かな」
「冗談! くれぐれも身体には気をつけろよな」
「言われなくとも。あんたもね、灯」
そこで言うべきことがなくなって、どちらからともなく手を振った。
それじゃ。うん。
ふり返ることなく、二人はそれぞれ別の帰路についた。
それからしばらくの間は、思い出したように連絡を取り合うことはあったものの、会って話すまでには至らなかった。
そのうちに数年が経った。大人になるとはこういうことなのかもしれない。掛井はふと、そう思うことが増えた。
深夜一時、ベッドに寝転んで携帯電話の画面をじっと眺めているときにも、そんな考えが脳裏に去来していた。薄青く光る画面には香取の写真アイコンと、電話番号が表示されている。写真はいまだに大学時代のものだ。
腐れ縁ホットラインはまだ生きているのだろうか?
確証は持てなかった。大学のころであれば、むこうの迷惑を考えず宵っ張りな香取に長電話したものだ。けれどお互いにもうそんな歳でもない。経年劣化した関係に致命的なひびが入るかもしれない。
――いや、迷っていてもらちが明かない。三十分の長考の末に、掛井は発信のアイコンを指で押した。ええい、ままよ。
「リコ? 久しぶり」三コール目で懐かしい声が耳朶にひびいた。直前まで寝ていたことがわかる、むにゃむにゃとした活舌の悪さに、少しだけ申し訳なさを覚える。「眠れないの? 羊の数でも数えてやろうか」
「それぐらい自分で数える。……そうじゃなくて。眠れないのもあるんだけど」
「けど、何」
「ここしばらく部屋がえげつなく汚くてさ」
部屋の汚れ具合を「えげつない」だなんて表現する人、はじめてだよ――と呆れる声。「それで? 片付けるのを手伝ってほしいとか?」
「話が早くて助かる」
「夜の二時に片付けの頼みねえ」
「非常識な時間に電話したのは謝る。ごめんなさい」
「よろしい――ちょっと待ってくれ。スケジュール確認するから」
布団をどかすごそごそとした音がして、それからしばらく音声がとぎれた。しばらくすると、「明後日でどうよ」
「急だな」
「時計見ろよな。その言葉、そっくりそのまま返すよ」
「……わかった。じゃあ、明後日に」
「うん。色々用意して行く」
「じゃあ、期待しないで待ってる」
低い笑い声とともに、電話は切れた。ついでの一言で明日の朝に講義ノートを借りる約束も取りつけられそうなほど、いつもの簡素なやり取りだった。
その晩、掛井は久しぶりにふかい眠りについた。
しゅこ、しゅこ、しゅこ、しゅこ
どこか近くから、一定のリズムで音がする。なんだろう、という疑問で目が覚めて、掛井は自分が眠っていたことに気がついた。
それほど時間は経っていないらしかった。よだれの跡をジャージの裾でぬぐうと、音の原因――どうしてか、足踏み式の空気入れを踏み続けている香取の方に目を向けた。
「お、起きた。もう終わるから」
「終わるって、何が」
「それは待ってのお楽しみ」
いたずらっ子のような笑みに、返す言葉もない。
よく見渡せば、部屋の様子も寝る前とすこし違っている。窓にはカーテンが引かれ、エアコンが作動している。雑然と置いてあったゴミ袋は、邪魔にならない程度に廊下に積み置かれていて、居間は寝落ちする前よりきれいに片付けられていた。
壁の近くには見覚えのないビニール生地のひとり掛け用ソファが置かれ、そのそばには小型のプロジェクターを乗せたスタンドが設置してあった。
「先に座って、おいてくれると、助かる」
息せき切りながら空気を入れ続ける香取の言葉に従い、掛井はソファに身をうずめた。よく見れば、香取の足元からだんだんと形を成して立ち上がるそれは、いま自分が座っているのと同じ形のソファだ。ふたつめともなれば、そりゃ息も切れるというものだろう。
立ち上がった空気式ソファを向かい合うような形で置くと、香取は部屋の電気を消して、プロジェクターを操作し始めた。白い壁に動画データの再生選択画面が映し出され、いくつかあるうちから昨日の日付が題された動画が選択された。
壁に映されたのは、どこか見覚えのある車窓からの風景。
電車は止まっているらしく、外にはひなびた駅の光景が見える。白看板に書かれた「巨勢」という駅名を見て、あ、と思わず声が出た。
「懐かしい」
続けてスマホを操作していた香取は、掛井の方を向いてにやりと笑った。
車内のアナウンスに混じって、よく通るハスキーな女性の声が流れ始める。ラジオ放送のアプリだ。
「さすがに、あの日の放送そのままのアーカイブまでは見つけられなかったんだ」向かいのソファにどすりと座って、香取は言う。「こればっかりは許してね」
「なるほどね、やっと趣旨がわかってきた」掛井は肩の力をぬいて、ソファにゆるりともたれかかった。「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)だね」
「あるいは、行先不明の仮想旅行(バーチャル・ミステリー・ツアー)」
「灯。あんたはこの旅行で、私をどこにつれていく気?」
「それがわかったら、この旅はミステリー・ツアーとは言えなくなるでしょ」
「それもそうだね」
掛井は足を出して、くらげのようにやわらかに身体をずりさげた。向かいの女が何を考えているかは――今もむかしも――よくわからないけれど、へんに緊張する必要はないのだ。とりあえずは、流れに身をまかせてみるほかにない。
そうだ、たしかにあの時も流れていた。番組名は〈ムジカ・チューズデイ〉。DJ橋村アリカのさばけた語り口を気に入っている、というのが最初に発見した共通点だった。あの頃から続いていると考えると、かなりの長寿番組だ。
きっとあの頃の私たちのように、世界に対してほんの少し斜に構えていて、けれども真っ向から反抗するほど不真面目になれなかったリスナーたちが、この番組を支えてきたのだろう。二人がその事実に気づくのは、もうすこし先のことだ。ちょうど、人生の酸いや苦いの味がわかってきたころに。
ドアが閉まります。アナウンスが再生され、車窓から見える風景がゆっくりと動き出す。
過去行きの仮想の列車は、アパートの一室からしずかに走り出した。
(続きは『蒼鴉城第45号』で)